学校でのイジメ

   

大津市のイジメ問題は注目されたが、全国の学校で似たような問題が起きている。この事で学校を責めてはならない。イジメは社会全体の問題である。学校でこの問題が深刻化してきた第一の原因は、学校が学力重視に追い込まれているからである。世界の学力の何番目であるとマスコミは騒ぎたてる。一番でなければいけない。一番でなければ、有用な人材と言えない。こういう方向に学校がなったのは、ここ10年である。リーマンショック以降、企業が人材確保のため、教育のゆとりや多様化にストップをかけた。このままでは、世界の学力競争から落ちこぼれ、日本経済が競争に負ける。盛んにこうしたキャンペーンがマスコミぐるみで行われた。全国学力テストを行い、学校を順位化して、競争させようという事だ。子供たちへのそうした圧迫は必ず何かに現われる。もちろん地域や、学校によって大きく異なるが、全体では競争社会が先鋭化すれば、必ずイジメのような現象が現れる。

競争の原理は大多数の人間をダメにする。大多数が駄目でも、優秀な少人数の勝ち組がいれば、構わないというのが、一番でなければ意味のない世界だ。10番目も、100番目も、びりの人も、人間の価値は少しも変わらず、普通に生きていける社会。競争が無くても、普通に努力できる社会。これが人間が目指すべき大切方角なのではないだろうか。農耕社会では、一番多く採れる人も、水害が起こり流されれば、何もなくなる。その上、優秀な働きものが、どう頑張っても人の倍取れれば、限界である。自然条件に従う仕事の中での競争は、収量は地域平均とさして変わらない。労働時間が長くなったとしても、その労働が楽しいものであれば、負担というほどではない。地域に農作業の工夫をする人がいれば、その工夫はいつの間にか、全体の共有の技術になる。自分だけ技術を独占して利益を独り占めする訳にはいかない。

世界の競争に負けてどうする。韓国の企業は日本の企業を追い抜いた。中国の経済成長によって、日本は圧迫される。こういう不安感がすべての出発点ではないか。原発のジレンマもそうだ。誰だって、これほど始末の悪い方法を選択したくはない。しかし、原発を止めて、経済の競争に負けるのではないか。こういう不安から、社会的焦りが高まる。負けるとどうなるかである。それは勝ち続けられるなら良いが、日本の金メダルは、全体の一部である。それで十分である。どこの民族にも得意不得意がある。日本が他国に迷惑をかけないで、そこそこにやって行けば、国としては良いのだと思う。一番にならなければならないという競争をし続ければ、「その社会的矛盾は弱いものに行く。特に、子供たちにその矛盾はあらわれる。」金沢大学の教育学の小松周吉教授は繰り返し語っていた。小松先生は教育史を研究されることを通して、能力主義教育とナショナリズムの問題を研究されていた。

先生が危惧していたことが、今学校ではいじめとして現われている。現代の先端産業の競争では、最優秀の一番の人が一人いれば、スティーブ・ジョブズ一代でアップル社のように、世界の時価総額の1%達する会社が生まれる。つまり、そう言うずば抜けた人が100人いれば、世界の企業は十分という事だ。もちろんそう単純ではないだろうが、もし世界が100人の村だったらという現実。その有能な100人に世界の大半の残りの人間が指導してもらえば、一番合理的だという方向に動いている。企業が世界を支配するなら、そう言う事になる。こんな馬鹿げた競争に、つまり、大多数には関係のない競争に、大多数の人が巻き込まれている。日本人の遅れかけた不安は、だんだんそう言う心理状態に追い詰められている。100坪の土地で、毎日1時間、働けは人間は生きていけるのだ。それ以上のものを求めて、幸せから遠のいて行くのでは話がおかしい。

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