水彩人展の作品
「朝の時間」
水彩人展に出す絵を描いている。昔の絵と較べて見ている。原発事故以前の絵と、事故以降の繪の違い。当たり前すぎる見方だが、重い絵になっている。明るい色を使った重い絵を描こうとしている。「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」という絵が描きたい。ともかく苦しい気持ちに支配されていて、美しいというような共感が湧いてこない。その中で、生きているというエネルギーを絵を描くことで確認しようとしているのだと思う。暮らしの周辺を描いている。暮らしの位置を描いている。自分の暮らしている周辺を繰り返し描いている。暮らしの位置を描くことで、自分という存在を探している。絵を描く目で「見る」と言う事は、その人の感性や、哲学を通して眼に映るものを、解釈している。雲でも木一本でも構わないのだが、その人の人間が出てこないようでは、絵を描く意味がない。畑を耕して田んぼを耕して暮らしている。このよく耕作された谷間については、自分の中で特別なものとして眼に見えている。
日本の風景は湿潤で、かすんでいる。すべての色にグレーが入っているように感ずる。私にとってはこの水を含んだ濡れ色は、油彩画では表現できないものであった。水彩の色は常に髪色が透けて見えるような紙の白を含んだい色合い。この多様なグレーの階調は、単純に白と黒の混色ではない。水彩の場合、パレットで補色の混色で作るグレーもあれば、紙の上で、重ねて作り出す無限のグレーもある。原発事故以降、とても暗い心境で生きている。自分の暮らしを見つめ直さざる得なかった。やっと今になり、絵を描いてみる気になった。暗い心境を描いてみる気もしない。大丈夫という気持ちを描きたい。絵を描くと言う事は、自分というものとどこまで向かい合えるかである。別段良い絵を描いてみたい等は思わない。自分が、原発事故後美しく見えなかった、桜の花の姿を忘れられない。美しいというものが主観的なもので、視覚的にいかに危ういものなのかを知った。あの白々とした、次元が変わってしまった桜が描ければと思う。
絵を描くときに手順とか、方法とかは考えない。方法から入れば、本質から遠ざかるばかりである。常に過去の自分を裏切るような、新鮮な挑戦でなければ、自分を探ることなどできない。自分の安心できる絵に近ずく事は出来ない。水彩画は素朴で、単純な手法だ。下描きや概略のメモ書きで使われる。つまり、そのものの持つ外せない要素を、素早く押さえることに向いている。本質の骨格だけを描きとめ、探る事に向いている。水彩画を描いてきた実感である。今のような追い詰められたような心境になると、絵をやっていて良かったと思う。自分が崩れることをかろうじて絵を描くことが食い止めてくれている。少なくとも絵を描いている時は余計なことを考えないでいられる。
冒頭の絵は春芽吹いてきた、木の葉に朝の光があたり始めた様子である。どこにでもある木なのだが、実はこれは毎朝必ず挨拶をする木である。木によって、とて親しい気分を感ずる木と、ただのものにすぎない木もある。何故なのだろう。春芽吹いてくる木は、再生を感ずる。朝と言う時も再生である。わずか明りが差して来た時、目覚め始める新緑の希望の印象。そうしたことは見えていることだ。それが絵に充分にはとらえきれない。見えているような気がしても、見えていないことなのか。見えているということは、不思議である。視覚で見ているだけでないのだろう。肌に当たる日差しや、風の流れ、におい。そうしたものすべてが見えているものを作り出すのだろう。写真の絵は、中盤全紙。ファブリアーノクラシコ。