絵を描いていると道が現われる

風景画を描いている事がほとんどである。山や海や空を描くのだが、妙高山を描いていると言うときでも、特に山を描いていると言う意識はない。妙高山という題名は付けるが、特別な意味はない。描いている意識は山を描きながら画面に現われてくる、ある種の記憶の空気のような物が現われるのをを待っている。記憶が呼び覚ます世界観のような物を待っている。
あれこれ描いている内に山が消えてなくなり、草原になっていることもある。山という物の意味を通して、何かを表現しようとしているわけではないので、そういうことは一向にかまわない。それでは抽象画と言うことかと言えば、物の意味は自分なりにはいつも意識していて、抽象的形というもので描いていることは無い。
そうして絵を動かしていると、良く道が現われる。画面を動かそうとして引いた線が道に見え出すことは良くある。道はとても意味深い物だ。花や雲よりも道という存在の意味が、思わせぶりな存在になりがちだ。「僕の前に道はない、僕の後に道は出来る。」と言う具合に。
東洋には「道」という思想的な物がある。タオと言ってもいい。一言では言えないのだが、タオは宇宙の真理。中国の道教は名前に示されているように、道という物を絶対の真理として居る宗教である。道教以前に老子の思想にタオという物が始まる。
老子のタオは宇宙の成り立ちの原理はタオによって居るとしている。タオは宇宙の成立の真理のような物。何故宇宙が生まれたか。何故生命は生まれたか。何故自分は今ここに存在しているのか。そのすべてのことは連なっていて、一つのタオという真理に至る。
現実の道路という物は、実用的な物だ。場所と場所をつなげる為には道路が必要になる。この道路と言う実用物の中に、タオを見るという事がある。絵に道が現われると、どうしてもタオと言うことが頭をかすめる。そのことは又後で考えてみる。
日本では何にでも「道」を付ける。茶道。華道。香道。柔道。漫画道。中には悪道や邪道や覇道などという言葉まである。道をつけれることで、趣味や楽しみであった物が、一つの生き方になる。日本の茶の湯では、茶道が人生の道のように意識されることになる。
ただお茶のみであれば、そこに思想などなにも考えない。一休みであり、憩いである。そのお茶のみの一服を人生の目標とまで考えようというのが茶道なのだろう。どんなことであれ、それを極める物と定めて修行を繰り返すことが目的になり、それがタオになる。
絵で現われる道は、畦道が多い。やいまという石垣島の地域紙に連載させてもらっている記事は、「畦道を歩く」と言う表題が付けられている。やいまの編集で決めてくれた。畦道という物は畑の耕作上の必要から出来る。広い道もあれば、狭い道もある。
畑の実用に従って畦道は作られる。トラックターが通れる畦道もあれば、歩くだけの畦道もある。畦日がおもしろいのは畑の実用に従っているからだ。最も作業の合理性のあるものに変えられ、変えられながら作られている。畦道は耕作地にはつきものと言える。
そして、畑から畑を繋ぐのが、野良道になる。踏み分け道がだんだんに野良道になる。その畑に頻繁に行くのなら、だんだんにその道は明確な物になる。余り行かなくなれば、野良道は消えて途絶える。踏み分け道である。そこを通っている間にだんだん道が生まれるのだ。
登山道もそれに似ている。ルートなどという。とざんをするのに合理的なルートがだんだん道になる。登山道も通る人が多ければ、踏まれてしっかりした道になる。道標や石積みなどがおかれて、登山道として確定されてゆく。良い登山道であれば、道が消えることはないが、無理のある登山道は人が通らなくなり自然に消えてゆく。
中国やヨーロッパの古い道は石で作られていて、車輪が通る場所には何千年の間に、深い溝が刻まれている。石の文化の人間の強い意志を感じる道。日本の古道の多くは土の道であり、自然に生まれ、自然に帰る道だ。自然になじみ溶け込み、自然となじむ道の姿である。
いずれにしても、ある場所から、ほかの場所をつないで居るのが道だ。茶道もそうなのだろう。今の自分がお茶の道を修行して、ある極みまで進む。このお茶を飲むという自然の行為の繰返しが、人生の目的にまで達するという意識が道。
絵に現われる道は何もそういう思想を暗示しようというわけではない。世界には道があると言うことなのだと思う。道がそこなることが自然であり、道がない自然という物は、太古の自然であり、私には興味がないからと言うことになる。
人間が生きている自然には人間の痕跡がある。畑であり、道であり、家である。自然の中にわずかな痕跡を残しながら人間は生きている。その姿に惹かれている。コンクリートで固めたような道の姿は絵には現われない。道が出てくるとその場所が人間が関わっていると言うことが示されるのだろう。
そ言う絵の意味という物は以前は余り考えなかったのだが。結果としていまは意識している。そしてその現われた道に、タオと言うことは関係しているのかと言うことになる。絵を描いているのは画道なのか。絵に現われた道は何か意味があるのか。
絵に描かれる道はタオの意味は全くない。絵を描くことを画道などと言えば気持ち悪い。絵を描くのは日常である。いわば踏み分け道である。ただ絵を描いて歩いているだけである。歩かなく成れば消える。そう思って、日々絵を描いている。茶道ではなく、お茶のみの方である。
お茶を飲むことがのどを癒やし、気持ちがゆったりとなるのであれば、それで十分である。絵を描くことで自分の世界観が確立され、それ替えに現われてくることを目指している。自分という存在が絵の上に現われれば良いと考えて描いてきたのだが、実は自分という物が曖昧模糊としているために、いまのところ絵に現われようがないのだ。
絵を描くことを通して、自分という物をよりくっきりとさせられるのではないかと考えている。自分が何を良しとして、何を間違っていると考えているかを、頭の中だけでなく、絵の上で確か見ているような感じだと思う。絵は論理で考えられないことも、絵を進める過程で色や形や筆触で、確かめている。
何故この色をこの大きさでここに置くのが良いのか。こういうことは自分の何かが決めていることだ。そこを突き詰めてゆくことで、自分の良しとしている世界がだんだん明確になる。その期待が絵を描くことに惹きつけられている理由なのだと今は考えている。