織座の会最終号「ほしび」

織り座の会の最終号が送られてきた。窪川真さんが死んでから、織り座農園を支えるという意味で作られたものだったと書いてある。しかし典子さんは窪川さんよりもはるかにしっかりした人なので、そういう言う心配はしたことは私にはない。
窪川さんを結婚する前から支えてくれていたのが典子さんである。もうそう言うことも忘れたほど時間が経過した。何年経つのだろう。1988年の織り座通信二号が一緒に送られてきたので、その時はまだ元気だったわけだ。あの頃はお互い楽しかったなぁ。
2002年7月23日に窪川さんはトラックター事故で死んだとあった。22年前のことなのだ。彼が死んだと教えてくれたのは、織座農園で研修して、あしがら農の会のメンバーになった、二宮の井上昌代さんが急報してくれた。あまりのことにどう考えて良いか分らないほどのことだった。
何をどうしたら良いかも分らないまま、電話をすると典子さんが真さんが植えたキャベツだか、大根だかが沢山あるのだが、販売できないかと言われた。すぐに生協にいた友人に相談すると、窪川さんのことは良く聞いていると言うことで、全量自分が責任を持って買い取ると言ってくれた。香典だとおもって高く買ってくれとお願いした。
井上さんは織り座農園で研修をしていたことが有り、時々出掛けていた。井上さんにも私にも、まさか窪川さんが死ぬなど、衝撃は計り知れないほど深刻なものだった。この先どうしていこうか。あれこれ窪川さんとこのさきの計画を立てて、話していた所だった。あしがら農の会との連携を考えていたのだ。互いに補い合えることがある。
窪川さんとであったのは高校時代からだった。世田谷学園の同級生だったのだ。動物好き、植物好きと言うことで、一緒に行動することが多かった。「愛犬の友」を三軒茶屋の甲文堂で立ち読みしては、東京中の犬のブリーダーを尋ねて歩いた。それで私はブルドックを飼うことにした。
金魚や鶏も見て歩いた。そんなことに興味を持つのは、学校では二人だけだったので気があうというわけでもなかったのだが、行動はよくよく一緒だった。窪川さんはお父さんが銀行勤めで、転勤で仙台に暮らしていた。仙台から東京に戻ってきた為か、世田谷学園に慣れずに少し緊張していた。
どこか攻撃的な人間で、戦うための知識を詰め込んでいた。本をよく読んでいたのは確かだ。私も本好きで、図書館で年間一番借りる生徒だから、その点でも話のある数少ない人だった。彼は走るのは速いと自慢だった。一度競争したら当然陸上部の私の方が早かった。
しかし、その後も自分の方が早かったと譲ろうとはしなかった。極めつけの負けず嫌いだったのだ。高校を出てからは疎遠になり、そんな彼とまた交流が再開したのは、フランスから帰って、「北都」という雑誌を作ったとき、窪川さんを思い出して誘ったのだ。その頃彼は学校の警備員をしていた。たしか、狛江のアパートに住んでいた。
そこでその後結婚した典子さんを紹介された。「北都」は一〇号まで続けて終わりになった。北都をやっていた頃だったと思うが、どこか移住地を捜そうと言うことで、関東一円を探し歩いた。随分捜したが、これぞという所は見つからないでいた。
捜していたのは田舎暮らしの場所だった。農業をやると言うより、ウチョウ蘭栽培はどうだろうか、とか。犬のブリーダーも良い。あるいは金魚の養殖も面白い。セントポーリアの生産をしたらどうだろうか。窪川さんの話は雲を掴むような話ばかりだったのだ。
すると、ある日突然に、自分は長野の川上村に行くことにしたというのだ。川上村に大理石の販売の仕事がある。どのように聞いてもよく分らない話だったのだが、川上村は大理石を産出する。その大理石の商品開発のようだった。ともかく給与が出るから、川上村でやってみるつもりだ。ということだった。
どこか一緒に行ってやってみようなどとも話していたのに、相談もなく、まったく突然の決断で彼は一歩先に東京から飛び出すことになった。川上村の仕事は一年か2年くらいだろうか。何度訪ねた。彼も東京に出てくると良く寄ってくれた。
農業を模索しながら、何とか道を切り開こうとしていた。典子さんは東京にいて教師を続けていた。苦しい時代だったのかもしれない。大理石の商品セールスは軌道に乗るはずもない。料理に使う調理台のようなものを作って見せてくれた。
川上村の話も面白く語ってくれたのだが、私には無理そうに見えた。軌道に乗ったら、典子さんも長野に移住すると言うことで、教師を続けていた。そうしている内に今織座農園のある、八千穂村の高い所に場所を見付けた。それから苦労して家を建てるということになったのだ。
八千穂村に家を作って出来上がり、典子さんも追って移住したのだと思う。随分不思議な家を作ったものだと、半分あきれて思ったのだが、彼は大満足のようだった。家の前にある大きな石ばかりが、石好きとしては面白くて眺めて歩いた。到底動かせないほど大きな石が転がっていて、石庭だと思えばすごい場所だった。字大石という地名が印象的だった。
そ
れから、窪川さんは田んぼを始めた。ハウストマトも始めた。ボルゾイを飼っていたこともあった。ペルシャ猫も飼っていた。何か趣味が庶民的ではない。日本犬にトラ猫ではないのだ。この点では私とはまったく話があわなかった。犬かと思うほど小さなジャージー牛を飼っていたこともあった。
れから、窪川さんは田んぼを始めた。ハウストマトも始めた。ボルゾイを飼っていたこともあった。ペルシャ猫も飼っていた。何か趣味が庶民的ではない。日本犬にトラ猫ではないのだ。この点では私とはまったく話があわなかった。犬かと思うほど小さなジャージー牛を飼っていたこともあった。
その頃やっと私は、窪川さんに遅れて山北で開墾生活を始めたのだ。先に長野に移住した窪川さんの影響が大きかった。今農業生活をしているのは、もちろん窪川さんの圧倒的な影響の続きだ。田舎暮らしは私の場合は子供の頃藤垈の自給暮らしのお寺で育ったから、どういうものかは分っていた。生活としての体験者と、学校農業の体験者ではどこか違う。
窪川さんの田舎暮らしは、玉川学園小学校でのことが始まりだ。まだ玉川学園が建設途上で、生徒も一緒に学園農場の開墾整備をしていたという。そこで畑や田んぼも経験したらしい。そのことが随分楽しかったらしくて、良くその頃の話を語っていた。そうそんな話は、学校の警備員の宿直の時に飲みに行き話したのだ。この話はばらしてももう大丈夫だろう。
蘭友会も一緒に入会した。蘭業者に成れないかと言うことを二人で本気で考えていたのだ。まだバブル時代で、何でもやれそうな機運が社会には充満していた。窪川さんは会えば戦う相手だったのだが、結局何でも一緒にやっていたわけだ。典子さんが私の絵の個展を手伝ってくれたこともあった。
織座農園て名前を付けたのだが、何か分るか。空の星座でもあるが、内容としてはお米の学名のオリザだと自慢げに言っていた。こういう命名の仕方もいかにも窪川さんらしいなとおもった。窪川さんもまさか今の私が石垣島でのぼたん農園を始めるとは考えなかっただろう。どんな皮肉を言うだろうか。
その後典子さんが本当の意味で織座農園を育てた。教祖的な要素のある人だから、人を惹きつけるのだろう。大丈夫な人だ。見事にやってのけたと思う。すごいことだと思う。窪川さんはどう思っているだろうか。窪川真という人は、典子さんが作る上げた人なのだろう。