ダメを通らなければ、良くなれない。

   



 今より良くなるためには、一度はダメにならなければならない。今の状態を、増しなものだと思っている自分を否定し無ければ、次に進むことは出来ない。だめである事は苦しい。その苦しさを通り抜けなければ、次には進めない。自分を良しとしたときが自分が、そこで終わるときだと肝に銘じなければならない。

  この文章は自分に向けて書いている。時々書かないと自己否定の矛が鈍るからだ。人間ついこれで良しと考えてしまいがちだ。今のままではダメだと、時々活を入れないと甘くなる。甘くなれば、自分というものには至れない。自己存在はその先にしか居ない。

 絵を描いていると言うことは、その点、目の前に絵を置いて考えられる。ここが指針になる。今描いている物が良いと思えば、つまりそれが最終地点である。その先はないということだ。その先がないような藝術があるわけがない。藝術は常に新しい世界に進むものだ。

 今のほどほどの良さではないか。という、まやかしを越えるために、描き終われば過去のものだと考える必要がある。目の前にある絵は次に進むための材料だ。どこが自分ではないかを見つめ直すためのもの。自分を評価する絵などいらない。

 自分を捜して描くという行為が私絵画なのだ。終わった行為は過去と考えなければ成らない。これが私絵画の苦しさである。完成を求めて、絵が一度完成すれば、その絵を否定しなければならない。そしてまた新たな気持ちで描き始める。その繰返しだ。

 そ絵が絵がデタラメになったとしても自分の絵の模写をしているよりはましなのだ。自分のそこそこの良さを後生大事に抱えてる姿が一番醜いのだ。自分などらっきょの皮むきで、どこまで行っても無いのかも知れない。あるかないかはどうでも良いことだ。探し続けると言うことが生きると言うこと。

 何を目指しているのか、多分目指していないのだ。描くという行為をどこまで純粋化できるかなのだ。だめならそれも出来るが、何か良いのかも知れないという声も聞こえるのだ。こんなことではだめである事を通り抜けられない可能性が高い。

 絵を描くと言うことは甘く考えれば、だめのまま終わる可能性が高い。生きると言うことも甘く考えたときが終わるときだ。この自己否定の苦しい道を通らなければ、わずかでも次の段階には進めない。人間が先に進むと言うことは、今を否定すると言うことになる。

 その一時の小さな成功を守ると言うことが、一番情けないことなのだ。修行を妨げることになる。過去のわずかな成功に、人間はしがみついてしがちなものだ。その小さな自分という物を否定しない限り、次には進めない。そこが難しいのが人間なのだと思う。

 自分でその小さな自分を守ってしまうのは論外だが、問題は良かったというまわりの評価の声なのだ。だから若いときに受賞などして、絵が売れるようになった人というのは、概ねその時から後は下り坂になる。傍から見れば昔は良かったという人なのだ。

 評価を鵜呑みにしてうぬぼれてしまった人は、自分の絵の模写を続ける哀れなことになるのだから、自分の贋作作家で終わる。評価されないと言うことこそ、素晴らしい絵に居たる道だったという人の絵画こそ、私には魅力的なものに見える。

 まわりの人が好意で評価をしてくれる。これが前に進むためには一番励みになることだ。修行の継続がそのために可能になる。ところがその褒められることが障害になる。甘える自分が居てはならないのだ。自分だってそこそこであると、そう言う卑しい思いを断ち切る必要がある。

 それをまわりから今で良いなどと言われれば、ついその気になってしまうのが、人間である。そんなはずはないのだ。まあその点私は大丈夫だ。私絵画だという自覚があるからだ。人間はやり尽くすことで初めて次に行ける。中途半端に納得してしまえばそこで成長は終わりである。

 自給農をやっていれば、収穫と言うことで、日々至らなさを痛感する。農では成功の法が少ない。必ず不十分である。それを受け入れて次への努力が出来る。これが大切なのだ。自分の力不足はしみじみとわかる。しかし、分るから考える、そして努力することになる。

 いつもダメだと確認することこそ、未来の可能性である。これで良しと思えばそこまでである。絵を描くと言うことはやり尽くすことなのだ。やり尽くさなければ、ダメなことがはっきりとしない。曖昧に残せば、なんとなく可能性があるように思えてしまうのだ。

 絵はやり尽くす姿だけなのかも知れない。良くここまでやったという感動かも知れない。良いところで終わると言うことは一番良くない。水彩画が危ういのは、誰が書いても最初の調子が一番美しいのだ。いわば墨絵を何度でも塗り直すようなものなのだ。

 そうしなければやり尽くしたことにならない。墨絵を何十回も塗り直して、初めて白い紙に墨が浸みて行く、あの美しさを越え無ければ成らない。油彩画と同じように何度も重ねて塗り固めて行く必要がある。ルオーのようにもうこれ以上は塗り込めないというように、水彩画もやり尽くしたものでなければ成らない。

 水彩画の本当の美しさは、一度塗りにはない。一度塗りの美しさは、私の美しさではなく、誰がやってもそうなるという、塗り絵のような素材としての美しさなのだ。この最初の状況に魅せられてしまい、離れられない水彩画は多いのだが、それは人間が描かなくても、誰にでもそれなりに出来る絵のようなものに過ぎないのだ。

 その最初の美しさを、無視できなければ私絵画にはならない。自分に至る道が芸術としての絵画なのだから、当然のことだ。人間はどこから来てどこに行くのか。これが芸術の核心である。自分を探求し画面に表現する。これが私絵画の核心である。

 自己探求の姿勢で、絵を描くという行為に大切なものがある。それはごく普通の絵を描く日常なのだが、その描くという行為を、真剣な真実なものにするためには、自己探求をやり遂げるという覚悟がなければ、何にもならない無駄な人生の費やし方になってしまうのだ。
 
 確かに結果としての絵が立派なものになればとか、世間で評価されるもになればとか、高く売れるものになればとか、外部に評価を委ねる生き方もあるのだろう。しかし、それは外部が絶対神であれば可能なことだが、そんな物はどこにもない。坐禅はただの只管打坐に過ぎないからこそ価値があるのだ。

 

 - 水彩画