ノーベル物理学賞をAI開発者が受賞

   

ハッピーヒルのひこばえ。稲刈り10日目。

 ノーベル物理学賞は、10月8日夜、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授とアメリカ・プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授のノーベル物理学賞受賞が発表された。受賞理由は「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明」である。

    画像生成、音声認識、ChatGPT、自動運転車、ロボット工学...etc. 今や急速に生活に溶け込み、日常に欠かせないものになってきたAI技術の進化は、ヒントンの開発したディープラーニング研究を礎としている。自ら考える人工知能である。

 人工知能(AI)の基礎を開発した2氏に決まった。早くもAIの研究分野での応用が評価されたことになる。将棋や囲碁がAIによって大きく変った。でープランニングである。囲碁は日本が最高水準を保っていた。作られた中国よりも高度な囲碁が打たれていた。

 所が、アジアで日本は中国、韓国、そして台湾、さらに日本というような状態になった。その原因はAIの登場によって囲碁のそれまでの発想が通用しなくなった結果だと思えた。日本にはプロの世界が古くから存在し、日本の囲碁の常識のようなものが確立されていた。

 この確立された考え方が、実は邪魔になって、AIの発想に余計について行けなくなった。強くなるためには、日本で確立されたそれまでの囲碁哲学のようなものを、自己否定しなくてはならなくなった。その意味で確立されていなかった。中国や韓国の新しい棋士の方が、無理なくAI囲碁の考え方を自分のものに出来たのだ。

 定石がガラッと変ったのだ。星に打たれた石に対して、33にすぐに入るような定石が表れた。囲碁は大して強くないので、その意味は分らないわけだが、すべての基礎となる考え方が変ったのだと思う。日本の棋士はそこからの20年苦労の連続であった。

 囲碁人口は将棋人口の数倍と言われていたのに、囲碁の世界の方が、経営も出来なくなり、棋戦がなくなるあるいは縮小というような状況になった。アジアでも弱い国なのだから、当然の結果と言えるだろう。囲碁だけのことならばどうと言うことも無い。

 すべての分野で、日本は一度は世界最高水準まで進んだ。所がコンピュターによる新しい産業革命が起きて、その抵抗性力化してしまったのだ。その背景にあるものが、実は日本の高度成長期の成功体験にある。コンピュター囲碁が登場して、後追いの国はどんどん利用して強くなった。

 あらゆる分野で、AIを上手く利用する文化が登場したのだ。スマホでも今や日本は先端ではなくなったのだ。アメリカはその点国の成り立ちの為なのか、成功体験で満足することなく、さらに上回る新しい発想を生み出して行く活力がある。移民で出来た国だからかも知れない。

 囲碁をやっていた人はコンピュターで囲碁は無理だと、デープランニングのAI囲碁を馬鹿にしていた。将棋では人間を上回るかも知れないが、囲碁では無理だと普通に話題にされていた。所が、そうではなかったのだ、囲碁がより複雑なゲームであればあるほど、AIは人間を引き離して強くなった。

 このコンピュター革命を軽んじてきた日本人は当然、新しい産業を生み出すことが出来なくなったのだ。革命以前の成功体験が邪魔をしたのだろう。もう30年のあいだ新しい産業が生まれることなく停滞した。それなりにやれていたもので、現状を引きづったわけだ。囲碁の棋士が韓国中国に抜かれて行く歴史でもある。

 その時に日本人は何故弱くなって行くのかが分らなかったのだ。ハングリー精神が足りない、努力が不足しているぐらいの分析だったのだ。自己否定が出来ないために、新しい世界に行けないのだ。でープランニングの自ら施行する力を持ち、自己否定する武器なのだ。AIはすでに人間を越えている。

 将棋の世界では藤井聡太が登場した。AIを利用して、新しい発想を身につけたために、圧倒的に強くなった。しかし、未だに藤井聡太7冠の強さは、惜しまず努力が出来るからだというような分析が、最後にはされている。確かにそれもあるが、重要な観点はAIを利用して、様々な局面を記憶していることにあると思える。

 絵画の世界が本質的には終わった原因は、やはりコンピュター革命にあると考えている。映像による精密な複製が、無限に可能になるという事。このことは私は高校生の時に気付いた。過去のすべての絵画と自分の創作が同列に評価されるときが来ると言うことに気付いた。

 音楽がレコードが出来て、生演奏から変化したようなものだ。作曲家は、バッハ、モーツアルト、ベートーベンと同列に比較される。だから、新しいクラシック音楽が生まれない。現代音楽の中でも芸術性の高いというか、難解なものはクラシック音楽のジャンルに入る。

 絵画においてはダビンチ、ベラスケス、ボッティチェリが自分と同列に比較できる時代がそこまで来ている。状況がこれほど変る中で、優れた手仕事である藝術という意味は失われている。上手であるということは、コンピュターに任せれば、ダビンチ以上の表現も可能なのだ。

 AI革命の時代以降の時代では、オリジナリティーの意味が変る。藝術の意味は人間自身の創作行為に重点が置かれるようになる。それを「私絵画」という名前を付けることにした。自分が描くという行為によって、芸術的体験をするという藝術世界のことだ。

 コンピュター革命の変革期である現代社会は、上手くAIを利用できるものが、優位を築いている。AIは道具である。その意味では蒸気機関と変らない。道具は人間がどう使うかで意味を持つ。将棋がAI登場で面白くなくなるかと思いきや、そうではなかった。

 一定の条件を付けることで、ゲーム性を残せたのだ。つまり対局中は見ることが禁止される。ところが、観客はコンピューターの評価値で手を読みながら戦いを味わう。これが面白いのだ。そして、将棋解説者の登場。コンピュターを駆使して、分析をしてくれる。

 それも含めて、棋士という人間の勝負が以前より鮮明に見えてきたのだ。コンピュターの示す最善手だけではなく、人間同志の戦いでは、相手はコンピュターではないから、相手の性格や傾向を含めて手段を打ち出す。案外AI最善手以上の手が表れるのだ。

 人間同士のぎりぎりの勝負に、コンピュターでは計り知れない、人間というものの意味すら表現される。これが意外に面白い。例えば2日制の勝負では、封じ手というものがある。一晩寝かされる手である。コンピュターではこの有利さの意味は計算できない。

 それは昼食休憩夕食休憩にも出てくる。あるいは疲労の問題も出てこない。こうした人間ならではの要素と、AIを加味してみて行くと、将棋は以前よりも素人の観客にも楽しめるものになったのだ。しかも、この将棋の読みという発想能力の養い方の意味も具体化された。

 農業の試行錯誤や戦略は、ほぼ将棋の発想と変らない。新しい方法を考えるときには大いに役立っている。良い自給農になるためには将棋的思考法は役立つ。じつはAIの教えからも大いに役立つが、自給農を行うのは人間なのだ。体力や味の好みまで関わって来る。

 この曖昧さの中に、人間がいる。「自給農はスポーツだ。」「水牛耕作はスポーツだ。」先日これを思いついた。水牛クルバシャーは真にスポーツだ。スポーツであれば楽しみである。お金を目指す棋士もいるだろうが、大半の人は遊びとして将棋で暇つぶしをするのだ。

 AI革命後は世界は変る。蒸気機関革命は肉体の意味を変えたが、今度のAI革命は人間の知能の意味を変える。思考する動物から、思考し創作する動物になる。創作することの喜びをどこまで深く味わうことが出来るかである。その描く思考の痕跡が絵画の画面と言うことになる。
 人間の生きる喜びは何ものかを創造することにある。芸術的創造ほど、大きく深い喜びはない。それは鑑賞する楽しみとは比較できないほどのものだ。そのことがAI革命後の時代に、人間が生きるためには最も重要な自覚しなければならないものだと思う。

 法律の運用などAIに任せるべきだ。行政の許認可の仕事もAIが行うべきだ。そうしてどんどん知能がAIに任されれば、民主主議社会が来る可能性が高くなる。確かにAI革命は危険な側面も大きい。人間のための科学であることを忘れてはならない。AIによって資本主義の終末期も様相が変る可能性がある。

 - Peace Cafe