身体が石垣の体質になる
石垣の体質に変った。多くの移住者が言うことなのだが、石垣に来て3,4年が経つと石垣の冬が寒くなると言われる。そもそも石垣に冬はないはずなのだが。私の場合、74歳になっているので反応が鈍いのか、5年が過ぎて初めて石垣島で寒いと感じるようになった。
石垣島の今朝の気温は17.9度である。この気温が寒いと感じるようになるのだ。小田原に居た頃であれば寒いどころではない。最低気温の18度は9月頃のほどよい気温である。石垣島で一番寒い時期でも小田原の10月頃の気温である。
小田原の春で言えば、5月頃の気候である。つまり冬はないのだ。11月から4月はないのが石垣島の気温である。これは身体にはとても楽なことだ。身体が寒さに縮こまることがない。冬の寒さで緊張することがない。締まらないと言えば締まらないのだが。
11月から4月の間でも、アトリエカーで窓を開けて普通に絵を描いていられる。冬が無い事は年寄には格別に有り難い。それで身体が緩んでいた。11月末に、小田原に行って寒さに肺をやられた。冷たい空気を吸い込んでしまい、身体が冷え切ってしまい痰が出るようになった。
あれから2週間経過してやっと直ってきた。石垣に戻って田植えだったから、身体を休ませると言うことも出来なかった。あまりの温度差に身体が対応できなかったことがよく分った。冬は小田原に行くとしても最短で戻ることにする。やはり身体の対応力が若い頃とは違うのだろう。身体を壊すことが分ったのだから、止むえない。せめて4月くらいまで我慢するほかないだろう。
小田原の寒さはよく分ったのだが、これが岩手などであれば冬には到底行くことなど出来ない。所が今年初めて、石垣島でも寒いと言うことを感じたのだ。今まではみんなが今日は寒いなどと言うのだが、何でこんなに暖かいのにと同調できないで居たのだ。
石垣に越してもダウンは捨ててはだめだ。と言われていた。いつか必ず買いたくなるからと、言われていた。全く本当だった。昨日などは23度あるのにダウンを着て絵を描いていたのだ。23度あれば、人によったら半袖である。それがダウンなのだ。
人間の身体は変る。石垣の気温に対応したのだ。20度を切れば寒いと言うのが石垣島体質である。北東の10m近くの風が強く吹き続ける。これだと20度を切れば寒いのだ。これで寒いなどと言えば罰が当たりそうなのだが、身体の正直な反応なのだから仕方がない。
寒さは特に目立つのだが、身体全体が石垣島生産物に変ってきているはずだ。私の身体のほとんどすべてが、石垣島のものに変わったのでは無いか。身体の中に居る微生物も、石垣島のものに変った。私の身体の細胞よりも、身体の中の微生物数の方が多いと言われている。
身体を更生する微生物が変わり、細胞も変ったのだろう。そうすると体質が変る。水が変わり、水に馴染む。土が変わり、土に馴染む。石垣島の風景が私の身体の中に染み込んできた。これは精神的なものではなく、物質としての私の身体が変ったと言うことと考えて良い。
当然考え方も石垣島の水土の影響下にあると考えなければ成らない。人間は暮らしの場所を変えれば、身体のつくりから変る。微生物が変ったのだ。私の絵が変るとすればそういう所からであろう。石垣らしい風景を書こうなどと思ったことはないが、小田原を描いているのに石垣の空気柄われると言うことのようだ。
これは、人間の意識でどうなるというものでもない。いつの間にか、そうなってしまうのだ。そういう風に身体の中から絵が出てくるように、絵は描かなければならない。旅行者の風景画がくだらないのはそういうことなのだ。田中一村の絵は、奄美の風物は書いているが、少しも奄美の水土を感じない。
5年の石垣生活で何かが変った。10年経てばもう少し変わっていることだろう。5年間この暮らしが続けばと、石垣に越してきたとき考えてブログにも書いた。そして無事に5年が経過した。越してきたときの思いよりも、随分石垣島に馴染んだような気がしている。
やはり、のぼたん農園を始めたことが良かったのだと思う。のぼたん農園を初めて、多くの人と出会った。100名くらいの人と新しく接したのだろう。そのうち40名くらいの人が今のぼたん農園に参加している。参加深度の濃淡は様々であるが、人と会うことで人は変る。
のぼたん農園の冒険は、みんなで塊に成って挑戦するから出来る事だ。この冒険の船に同船した仲間からは、様々な影響を互いに受けている。目的は一つである。のぼたん農園の完成である。のぼたん農園は、自給のための研究農園である。人間が自分の力で生きることを探求する場所である。
「のぼたん農園」は自分の身体の力で、化石燃料に頼らず生きていける技術を探求し、学ぶ場所である。その点では、石垣島の自給生活は難しいと言うことが分ったところだ。これは想定外のことだったのだが、くじけずに自給農業の成立のために頑張ろうと思う。
「ひこばえ農法」と「あかうきくさ農法」を組み合わせて、一人でも出来る自給をしたいと考えている。ひこばえ農法は
、実は石垣島では古くからそれなりに行われていたらしいことも分ってきた。それは東アジアの自給的農業では珍しいことではないのだから、これも伝統農法の一つと考えて良いのだろう。
、実は石垣島では古くからそれなりに行われていたらしいことも分ってきた。それは東アジアの自給的農業では珍しいことではないのだから、これも伝統農法の一つと考えて良いのだろう。
11月の播種。12月の田植え。4月に1回目の稲刈り。7月に2回目の稲刈り。10月に3回目の稲刈り。この流れが安定して出来れば、年間で反収1トン取りも可能になるだろう。2人家族であれば、100キロで良いとなれば、1畝の田んぼで良いことになる。
あかうきくさは再生してくることは確かなのだが、まだ安定して、必要なときに増殖させるところまでは技術化が進まない。鶏糞を使うのが良いのではないかと考えている。バットグアノで増殖が出来る事は分った。増殖池の構想も考える必要がある。
こうしてのぼたん農園で日々すこしづつでも身体を使っていることも、身体が石垣に馴染んでくる要因だろう。身体を動かし、農業をする。そして出来たものを食べる。その土地の人間になるための方式のようなものだろう。目標の10年にはまだ7年ある。それぐらいは頑張れそうだ。
身体が楽に動く間に、二つの自給農法を確立したい。伝統農業として伝えて行けるものにしたい。のぼたん農法であれば、人間は楽しく食糧自給ができると言うことを、確立しなければならない。今年のと言うか、来年の稲作はその出発点になる気がする。