舟原溜め池の手直し

   



 今回の小田原での最大の作業は舟原ため池の工事だった。無事完了することができて、一安心した。結局ため池の維持は、粘り強い手入れである。いつもどこかが崩壊する。それを事前に察知して、手当を続ける。完全に治すことはできないが、維持はできる。これが江戸時代のやり方なのかと思っている。

 舟原ため池は江戸時代の万治年間(1658 $301C 60 年)に灌漑用として築造されたものとされている。小田原ではお城には関心があっても、農業遺構には目が向けられない。それは何を大切にして生きてゆくかの違いである。歴史を権力者中心にとらえるか、常民の暮らしに目を向けるかである。

 未来につながる大切な歴史は常民の暮らしの探求である。人の暮らしがどのようなものであるべきかを考える材料は、この土地に根を下ろして生きてきた人たちの生活を知ることからだろう。北条氏の歴史よりも、この地域に庶民は日々どのように暮らしていたのかを知ることの方が、未来につながる歴史だ。

 江戸初期に久野地域は新田開発が行われ、人口が急増してゆく。久野の古い家の伝承では江戸初期からこの地に暮らし始めたとされる家が多数存在する。江戸幕府が手掛けた新田開発が久野地域を多くの人が生活できる地域に変えていった。特に水路整備をしたことによって、生活水の確保と水田の造営を可能になり、暮らしを変えた。

 舟原には4つかあるいは3つのため池がかつてあったと言われている。現在は舟原のため池だけが残っている。溜池は舟原地区にあるのだが、一つ下の欠ノ上の水を確保するためのため池であった。欠ノ上は地下水路の集積点になっていて、欠ノ上から下の久野地域全体の水の管理がされていた場所と見られる。

 欠ノ上の集落の下には何本もの素掘りの地下水路がいまでも存在する。この地下水路の整備も20年前までは毎年行われていた。久野小学校の学校田の水も、欠ノ上からの地下水路で送られていた。さらにそのしたの酒匂川に至るまで、この水の恩恵を受けて暮らしがされていたのだ。地域全体を支える貴重な水だった。

 一つ隣の沢になる坊所に大きな湧水があり、そこから、尼子台の下を1Kほどの素掘りの水路トンネルも作られている。その出口には水神様が祭られていた。今では地域の人で水田をされる方も減少し、欠ノ上地域からから下にあった田んぼは、ほぼすべてが住宅地になって、水路や溜め池のことも忘れられた。

 そうした暮らしの変化で久野の古い時代の水田農業の姿や、暮らしの有様は、年々失われている。農の会の坊所、舟原、欠ノ上の田んぼは、かろうじてかつての久野の暮らしを示すものである。農の会が久野の田んぼ活動をしなかったとすれば、すでに久野の水田自体が失われていたのかもしれない。

 久野の人々は里地里山で山では炭焼きをして、平地では水田を作り、傾斜地では小麦を作り暮らしていたと推測される。江戸の街を支える重要なエネルギー拠点であった。薪や炭の一大生産地であった。江戸の100万人に及ぶ人達の暮らしは関東一円の里山に支えられたものだ。

 薪炭林が切り出されることで、美しい里地里山が形成されてきたことがある。薪炭林が久野の暮らしの原点にあり、その生産者を支える食料としての水田が、久野川沿岸に切り開かれたのだろう。最初は山間部に暮らしが始まり、徐々に平地に開拓が進む。こうした里地里山は江戸の周辺部全体に広がっていたはずだ。

 それがいよいよ失われつつある。この歴史の記憶を残すうえで重要なものが、久野々農業遺構である。棚田100選などといって、その美しい景観が注目され、棚田が残されているが、何故そこに棚田が出来たのか、そして何百年も残されてきたのかを考えなくてはならない。

 棚田を積み上げる技術も大変な技なのだと思う。そしてそれを手入れによって営々と維持して行くのも、さらに大変な技なのだと思う。常に崩壊して行くものを手入れによって手直しをして行く。その石垣の維持の技は今はすでに消えたのだろう。

 万治年間に造営された舟原溜め池は、今久野川に残る唯一の農業遺構である。関東大震災時に久野々棚田は一度すべてが押し流された。それを積み直し今の形に作り直したものとされている。溜め池は厚みのある土塁で出来ていて、関東大震災でも壊れなかったとされる。市の土木調査の結果今も安定していることが確認されている。

 この溜め池への入水は調査で、六つの湧水が周囲から湧いているということがわかった。修復を始めると、この溜め池自体がゴミを捨てられてしまい、ゴミとヘドロの池になっていた。生き物が生息できない死んだ水たまりになっていた。

 周辺の石垣積みはその石の間から水が漏るようになり、深く水を溜めることは出来なくなっていた。そこで、溜め池自体を上下に二つに分けることにした。大きな改変であるが、そうしなければ溜め池全体に水を溜めることが不可能だったのだ。

 それでも3回ほど下のダム状の石積みにコンクリートを詰めて、水漏れを下の方から徐々に少なくして、1m位は水が溜まるようにした。本来であれば、年に一回かい掘り水抜きをして、堆積した泥を一緒に流すのが良いのだが、現状では川の管理上それは出来ない。

 溜め池の堆積してしまった泥を取り除くことが出来ないことが今の最大の問題である。溜め池に入る道は細くて、軽自動車までしか入れない。ユンボと軽トラダンプで根気よくこの泥を取り除くことが出来れば、一段と良くなるはずなのだが。

 最初の計画では下の池は睡蓮池にする。上ノ池はカキツバタ池にする。花の咲く美しい場所になれば、100年後の誰かがこの美しい場所をなくしてはならないと考えるようになると考えた。今の時代はお金にならないことには見向きもしない、情けない時代だ

 溜め池が経済的意味を失った途端に、管理が放棄されゴミために変ってしまった。残りの三つの溜め池はすでにゴミで完全に埋められてしまった。農業遺構の保全は、久野々常民の暮らしをたどる貴重なものだ。人々はどうやって暮らしを立てたのか。人々はどう協働して暮らしを維持していたのか。

 今回、道路崩壊の部分は手つかずである。どう直せば良いのか結論が出ないでいた。しかしこの道が壊れれば、農の会の活動は大きく制限を受ける。何とか直さなければならない。もう一つ手前に擁壁を立てて、直そうかなどと話していた。

 昔農の会で一緒に活動していた、人から擁壁から、新しく水道を取ることで直す方法があるということで教えられた。何か著名な方の手法らしいのだが、その方が見てどう直せば良いのかを指導してくれるという話になった。一度小田原に来たときに見てくれていて、どう直せば良いのか話はあったらしい。

 所がその方は何と新たに見に来ていただくだけで、40万円かかるのだそうだ。もうそれだけで我々には依頼することすら出来ない。何かが違っていると思える。

 
 

 - 地域