日本人の願い事の変化
道元禅師の徒弟のつもりで生きているつもりである。得度もしたし、僧侶として本山からおすみつつきもいただいている。お寺とは縁のない僧侶のつもりで生きている。戒律も守らない生活であるので、偉そうなことは微塵も言えないが。アトリエ車と言う禅堂で、絵を描く修行をしている。
随分楽しい修行のようだが、それなりの苦行でもある。絵という結果が目の前に有り、修行の結果を日々眺めてのことだからだ。絵が自分に近づいているのかの判断が難しいからだ。しかし神仏に祈ったところでどうにもならないことは分っている。自力本願である。
時代はまさに末世である。仏法もほぼ消滅状態のようなものだ。先日、自動販売機にお金を入れると、AIによる人生相談が出来るというものの話が出ていた。おみくじ自動販売機の、進化形である。お寺の賽銭箱の脇に用意しておくと頃は出てくるかも知れない。金儲け住職よりも、AIの方が良い相談に乗ってくれそうだ。
お寺は死んだ人を始末してくれるところで、死んだ人が化けて出ないように、始末をしてくれるので、葬式仏教になったわけだ。檀家という形でお寺に所属して、ご先祖をお墓様に預かってくれる場所だ。死んだ人を大切にしなければ、一族の繁栄はないと言うことで、お寺にお布施を持って行くことになる。
資本主義が末期的状態を迎えすべからく商品化の時代である。葬儀にも松竹梅セットがあって、戒名もどうようである。当然死も商品化されて、価格次第である。宗教に期待されるものは御利益である。宝くじが当たるようにとか、ギャンブルで勝つと言うような、罰当たりなことばかりである。
そもそもお寺や神社に個人的な願い事をするなど筋違いなのだ。日本人が体験した古い宗教では、神様は個人的な願い事を受け入れない出来た。個人の祈願するような所では全くなかったのだ。国家安泰、疫病退散、五穀豊穣。社会全体の平安繁栄が祈られる場だった。
ところが、宗教まで商売にすることを、悪い事だとは考えない時代だから、48箇所スタンプラリー帳の販売やら、写経料とか実に痛ましいような状況になっている。信仰心が無くなったと言うことよりも、死者に対するおそれがなくなったことと、人口減少と核家族で、お寺の経営が出来なくなったのだ。
神社が結婚式場を併設したり、初詣のお賽銭、七五三のお参り、様々な儲ける手段を考案したのは、氏子と檀家の違いがあるのだろう。神社はお祝い事を上手く利用した。節句ごとの神社参りの義務感の醸成。昔は今ほどお宮参りなどしなかった。
氏子の方はなんと言っても祭礼の方を請け負っている。現世利益の方を一方的に担当している。めでたい場面で、ご祝儀をいただけるのは神社の方である。秋の大祭でその都市の収穫を祝い、御礼を神様にする。あくまで部落の守り神は部落全体を守るのであって、個人的な願い事は対象外だったのだ。お祭りはその地域を守るために行ってきた。
所が江戸時代になり、神社の経営も苦しくなり、おみくじを考案したり、様々な縁起物販売などを行うようになる。つまり個人的な希望を着ていてくれる場所に変ったのだ。神様の方もびっくりしたことだろうが、合格祈願などのお守りが、ネット通販までされている時代である。
何故こんなことになってしまったのかと言うことを考えなければ成らない。吉川英治の宮本武蔵ではこれから決闘に行くときに、ふと神社の前を通り、拝もうかという気持ちが湧く場面がある。「いや、そんな弱い気持ちではダメだ。人殺しをするのに神頼みはないだろう」と思いとどまる。
武運長久などと神仏に祈ると言う発想はおかしいと言う気持ちが、まだどこかに残されていたと言うことだろう。戦に勝利することを、神仏に願うのは構わない。それは故人の願望ではないからだ。自分個人が戦で手柄が上げられるように、無事生きて帰れるように、と神仏に願をかけると言うことはなかったのだ。それは神様は個人の事に関わりがなかったからだ。
あくまで公共のための神社だったのだ。それが実に拝金的に様変わりしたのが現代の神社の姿だと私には思える。お寺の方も死人につけ込んでなかなかあこぎな商売をしているので、良い勝負ではあるのだが。何故、神仏まで現世利益になったのかと言うことである。
よく考えてみれば、個人の不幸につけ込んだ詐欺行為である。神社やお寺で病気が治ることを願った所で、病院のようなことには間違ってもならない。もちろんギャンブル祈願したところで、合格祈願したところで、何の効果もない。要するに神様の名をかたり騙しているだけのことだ。まあ、騙される方も承知で騙されているから良いのだが。
金運上昇神社仏閣28選などと言うものが、ネットにはでていた。馬鹿馬鹿しいばかりだが、その結果確かに金運が揚がった神社はあるだろう。出掛けた人の方は上がったり下がったりに違いない。運などと言うものをそもそも神仏に祈ることが、方角違いだ。
日本人の宗教観は清新なすがしい所が在るものであった。利己的なものを排除し、みんなの幸せを祈ることを一義とした。これが日本人の美しい暮らしに繋がっていたのだ。こんなことを言っては悪いが、何故か商人思想の中国のようになってしまった。残念なこ
とである。
とである。
伊勢神宮の正宮では、感謝の気持ちを天照大御神に伝えるのが古くからの風習です。そのため、個人的なお願いごとをしてはいけないという決まりはありませんが、日頃の感謝を神様にお伝えするのがふさわしい場所とされています。 個人的なことを願う場ではないという、こうした注意書きがある。
日本の神社の大本がそう言っているのだから、本来全国の神社がそれに従わなければおかしい。今こうして生かされている自分のありがたさを神仏に感謝する場なのだ。感謝する気持ちに立ち返れる場として、神社や寺がある。これを忘れてしまったのが、日本の神社と寺の方だ。
話は少しそれて行く。宗教も資本主義に巻き込まれた。藝術も資本主義に巻き込まれた。文化の一つに漫画が成ったと、ちばてつや文化勲章受章者が話した。確かにそうなのだが、その背景にあるのは漫画のアニメの経済効果である。日本の文化としての世界への影響である。
鳥獣戯画絵巻の描写まで卓越したものはない。それは筆を使うという文化から生まれている。文字を筆で描いていた時代と、文字をキーボードで打つ時代では、筆から生まれる文化的な厚みが失われている。だから面白いと言うことも無いわけではないが、今のところはるかに及ばない線描である。
千葉てつやさんの文化勲章を、ちばあきおさんはきっと「兄貴良くやった」と喜んだろう。千葉家の満州生活と引き上げてからの困難な生活。それは千葉漫画以上に私には浸みてくる。日本国の悪行とそれに翻弄された庶民の暮らしのことだ。その意味で文化勲章お目でとうなどと初めて思った。