「完食指導を考える」
「完食指導を考える」---朝日新聞が特集を組んでいる。
名古屋市の女性(52)は、小食だった。小学1~2年のころ、給食を食べきれず、休み時間や掃除の時間まで、1人で席に残され、食べ続けさせられた。(私とまるで同じだ。)
献立表を見て、食べられそうにない日は朝から熱が出た。学校は休みがちだった。心配した母から精神科病院に連れて行かれ、様々な検査を受けたが、病気とは診断されなかった。思い詰めた母に「病気じゃないなら学校に行けるでしょ」「一緒に死のう」と言われた。(私は精神科に行って、田舎で暮らした。)
---朝日新聞
読んで驚いた、似たような体験である。給食の量が多すぎて食べきれなかったのだ。まだ栄養失調が言われるような時代だった。学校では肝油が配られて食べていた。同級生の弟さんが栄養失調で亡くなられたことがあったぐらいだ。世の中には食べたくてもたべられない子供がいるのに、なぜ残すのかと、完食指導が続いた。
いまだに完食指導がある。教師の食に対する知識が足りないのだ。小食の理由など考えたこともない。好き嫌いをなくすための方法が分からないものだから、いじめのような完食指導になってしまう。手順を踏まなければ好き嫌いはなくせない。食べる量は人によって違うということすら、気付かない教師がいまだにいる。
好き嫌いを作り出したのは、家庭教育の力不足が主たる原因である。そもそも大人になっても好き嫌いがある人がいる時代だ。何でも食べた方が体にいいのは事実だ。まんべんなく多様に「少量」食べるというのが、身体には一番良い。大人でもアレルギーなどでないなら、今からでも直した方がいい。
家庭で治せなかったものを、学校で治すことはやめた方がいい。学校教育の埒外である。食育は大切なものではあるが、親が家庭でできない、ないし悪い習慣を助長しているとすれば、学校でそれを無理に治すことは、よくない結果になる。
まして小食児童に完食を無理強いすることなど、あってはならないのは当然のことだ。教師によるいじめである。犯罪だったと思う。愚かな教員が学校教育の理不尽を子供に教えているようなものだ。身体の大きさで食べる量を変えてもらいたかった。当然の要求ではないか。
学校というものが、自分を追い詰めるところであって、逃げ込めない場所だと認識させた。学校というものへの不信は続いた。毎日理不尽ないじめを受けているのだから、信頼感など全く生まれなかった。教師への不信。学校への不信。大人社会への不信。理不尽な社会を完食指導で教えられた。
私は聖路加病院に連れていかれたのも、給食が食べられない問題もあったのだと思う。そういうことが寝小便にもつながり、時々自分を見失うようなことになった。それもあってだと思うのだが、東京の家では良くないという祖父の意見もあり、藤垈の向昌院で暮らすことが長かった。
向昌院では、一日中外で遊び惚けていた。大久保のお新屋では良かったら私を引き取りたいと言ってきたぐらい、何時も向昌院にいたのだ。畑仕事も田んぼ仕事もした。向昌院にいるときには、普通に食事が食べられていた。毎日走り回っていたからだろう
おホウトウが好きで大きなどんぶりいっぱい食べきれたのだ。大人たちにはそれが前菜で、それからご飯に入るのだが、私はホウトウ止まりではあった。あとはなべ物である。好きなだけとって食べればいいことになっていた。これが良かった。おじいさんがそうしてくれたのだと思う。
寝小便は向昌院ではしない。自分を見失うようなこともない。ただ親元を離れて寂しかったということはあった。それも夜のことで、昼間は面白くて何もかも忘れて走り回っていた。これではまずいだろうというので、境川小学校に臨時に通ったこともある。
ただ朝日新聞に出ている人といくらか違うのは、嫌いなものはなかった。ともかく量が食べられないということなのだ。マムシの肝でも、栗虫、赤ヒキガエルと何でも食べた。虚弱だから色々食べろということだったのだろう。興味もあって何でも食べた。
病的と言えるような小食なだけなのだ。病院のレントゲン検査では内臓すべてが小さいと言われた。心臓は特に小さいから気お付けるようにと言われたが。気お付けようもない。その後いくらか大きくなったのだろうか。今でもそうなのかもしれない。
今の体重が54キロ前後。身長171センチ。これでも高校生の頃よりは9キロ多い。前にも自慢で書いたが、校内スポーツテストで、一番だった。全国的にもかなりのトップクラスだった。だから運動能力が低かったということはあり得ないと思う。
千野の頼学寺で修業させてもらった時も。たべることでは苦労した。お檀家さんのところに行ったならば、出たご飯はすべて食べ残してはならない。これがきつかった。食べ切れるわけがないほどたくさん食事を出してくれるのだ。お寺では大したものを食べてないのだからという親切心だ。しかし、心底苦しかった。
私が、新橋駅前の吉野家で牛丼をお替りして2杯食べたのは、大学を卒業してエレベーター屋さんで
働いていた時だ。生まれて初めて、その時にたくさん食べることができた。いくらでも食べれるような気がした。25歳くらいの時だ。あれからはある程度は食べれるようになった。それでも夕食は食べない。酒を飲むためだが。
働いていた時だ。生まれて初めて、その時にたくさん食べることができた。いくらでも食べれるような気がした。25歳くらいの時だ。あれからはある程度は食べれるようになった。それでも夕食は食べない。酒を飲むためだが。
理由はもう一つよくわからないのだが。食べるということもかなり精神的なことに係っているのかもしれない。牛丼2杯はフランスに行くためにお金をためていて、必死だったのだ。生まれて初めて正式に務めて、給与をもらい働いた経験だった。残業があれば、大喜びだった。一時間でも長く働き早くフランスに行きたかった。
自分で言うのもおかしいが、エレベーター屋では、よく働いたと思う。フランスから戻ってからも、働きに来てくれないかと連絡があったくらいだ。青森から2人のおじさんが出稼ぎに来ていたのだが、この人たちがつらい仕事は引き受けてくれていた。負けないように頑張った。溶接とか、配線とか、組み立てとか、私で大丈夫かと思いながらもすぐにこなした。
あの時に何か吹っ切れたものがあって、徹夜でも肉体労働ができたのだ。フランスに行き絵を描く。これだけになって、無我夢中で働いた。父親には、家にいるのなら、家賃はいいが食費ぐらい出せと言われていたので、お金がなかなかたまらなかった。これが世間様の完食指導だったのかもしれない。
それでも100万まで貯金ができたときに、向昌院のおじいさんが同額の100万円出してやると言ってくれて、これでフランス行きが可能になった。おじいさんは私がフランスに行ってまもなく死んだ。たぶんそれが分かっていて出してくれたのだと思った。今から50年前の話になる。
完食指導のことだった。全く非科学的な指導だ。理由があって食べることができない子供がいる。人間は同じだけ食べることなどできなくて当たり前だ。たぶんどんな動物だってそうだろう。何歳の子供には、必要な量は何カロリーだというような通り一遍の考え方の教育は間違いだ。
足りない子供もいたはずだし、多すぎる子供もいた。この当たり前すぎることが理解できない教師というものを、軽蔑するようになってしまった。中学になり、弁当持参でこれほどほっとしたことはない。好き嫌いのない、何でも食べたい子供だった。あの恐怖の完食指導が今でもあるとは驚いた。