影のない風景
石垣島北部地区。飛行機が飛び立つと見える景色である。とがった山が野底だけだ。そして遠くに見るのが、のぼたん農園のある崎枝半島である。
飛行機に乗るときには必ず、窓側の席に座る。窓から外を見続けている。上空から見る景色がおもしろくて仕方がないのだ。月に一回石垣島から小田原を往復して居るのだから、もう100回は飛行機に乗っていることになるはずだが、少しも興味は減らない。
昔から俯瞰の景色に興味があった。それは山梨の甲府盆地の縁の高いところに生まれたからだと思っていた。盆地をいつも見下ろす風景を眺めていた。それで俯瞰の視点が身についたのだと思っていた。どうもそれだけでは無かったと言うことが、飛行機に乗っていて、感じるようになった。
見ることがそもそも好きだと言うことがある。見る喜びは生きる喜びのかなりの部分を占めている。目が徐々に悪くなっているので、なおさら見ることに未練がある。のぼたん農園で景色を見ていれば、一日飽きることが無いのは、見ることが喜びになっているからだろう。
だから、飛行機では外が見たくなる。飛行機の窓の外の雲を見ているだけで面白くて仕方がない。雲は天才だというが、あんな自由な造形はまず無い。どんどん変化してそれだけでも面白くて仕方がない。もちろん、上空から見下ろして島が見えたときには凝視してしまう。島が描いている形が実に興味深い。
人家が見える。一箇所に集中している島もある。島中に散らばって暮らしている島もある。かならず港が上手く作られている。2箇所ある島もある。森がある。畑がある。道路があり、飛行場がある島が多い。珊瑚礁の輪がエメラルドの海で美しく輪になって取り囲む島もある。
どの島も形が実にいい。自然に出来たものは完成している。島には人間の暮らしがすべて、そこに収まっている。何故上から見る島が面白いのかなど考えても居なかったのだが、それは俯瞰の景色が身体に入っていると言うことかと思っていたのだが、どうもそうではないようなのだ。
上から見る島は、影という物がないのだ。太陽と島との間に飛行機が居る。物に影がないと、物は図柄になる。絵のように見えると言っても良い。真上から見た地上は模様のように見える。例えば、畑の色や形の組み合わせは、色面構成のように見えてくる。しかもその色面の一つ一つに、物語が籠っている。
果てしない海という平面の中に描かれた島という図。この美しさには感動する。息をのむ。忽ち島を通り越してしまうので、目に焼き付けることにしている。写真も撮るのだが、写真ではやはりあの感じとは違う。写真で見る島はそれ程の物でもない。
どうも飛行機によって飛ぶコースが違う。多良間島の真上を通るときもあれば、それるときもある。宮古島や沖縄本島も飛ぶ位置がいつも違う。辺野古の真上を通ったときにはここに米軍基地が出来るのかと、許しがたい気持ちになった。その後辺野古上空を通ったことはない。
その後も、奄美群島付近の様々な島の上空を通る。何度見てもいつも引き込まれてしまう。ゆっくり飛んでくれれば良いのだが、忽ちに通り過ぎて行く。この島の姿は絵に出てきているのだと思う。記憶で絵を描いているから、記憶の底に島の姿はあるのだと思う。
石垣島の景色も影がなくなる季節がある。夏至前後の景色である。次の夏至は2025年6月21日土曜日 11:41 とある。夏至前後の風景では影が消えていることがある。上空から見たのと同じように、見ている景色が立体感を失い、平面の図柄のように見える。
つまり絵に描いたような姿が、目の前に現われる。これが何かの方角を示しているような気がして成らない。まだ良く理解したわけではないのだが、絵を描くと言うことは、平面の上に図柄を描くと言うことで、物の立体や奥行というようなことは、むしろ邪魔な物になるという事。
9月の21日だから、もう陽射しはアトリエカーの窓からかなり奥まで入り込んでくる。影のない景色を眺めることはまた来年まで待たなければならない。記憶の中には影のない景色が溜まっている。影のある目の前の景色は参考と言うことになる。
これは右目が緑内障でよく見えなくなり始めていると言うことも関係しているのかも知れない。片目で観る世界は立体感がなくなる。平面的な図柄が、絵の図柄になるのかも知れない。自分の風景を描くことが方角なのだから、何でも気になる事をやってみることになる。
陰がないと言うことのもう一つの意味は説明がないと言うことになる。物を説明するために陰影を付けるという役割がある。この説明が無意味だというのが、絵の考え方だ。絵は説明ではないと言うこと。絵は核心だけを描く物で、そのものの補足説明はしない。
それは物の材質感とか、感触というような物も絵の上では邪魔なものになる。説明があればあるほど、絵の本質から離れて行く。絵の具の色と、簡単な図形に還元した物を、画面の上で構成する事が絵と言うこと。それだけで自分の世界を表現しなければならない。
そこには曖昧なにじみとか、ぼかしと
か言うものも極力避けた方が良い。だからそれは陰のない世界に似ているのだ。リンゴを書いて、リンゴが丸い立体であるというようなことがいらない。リンゴは囓ったら汁が出るというようなことも、私の絵ではいらない。
か言うものも極力避けた方が良い。だからそれは陰のない世界に似ているのだ。リンゴを書いて、リンゴが丸い立体であるというようなことがいらない。リンゴは囓ったら汁が出るというようなことも、私の絵ではいらない。
あくまで画面上の色の組み合わせと形の組み合わせに還元されてゆく。だからといってものの意味がいらないわけではない。上空からの視覚の色面がサトウキビの畑であるということは、分らなければその色面の魅力も失われる。物の形に意味があるということが風景の面白さなのだ。
図形化された物に伴う、意味があるとすればあるというぐらいの説明ではない意味づけである。見るものが煩わしくない限界にある意味。図柄寸前の物の意味づけ。どこかに意味の暗示が残されていれば、見るものは色面や線や点を意味付けをして見ることに成る。
この矛盾というか思い込みのような物が、絵の面白さなのかも知れない。分らないと分るの境目辺りに絵はあるのかもしれない。分ってしまえばつまらない。分らなければもっとつまらない。分りそうで分らない。分らないけれどなんとなく感じる。この辺りに絵という物はあるのかもしれない。
陰が消えるというのも意味を曖昧にするために必要なことなのだろう。色面の絵画に何故成るのかと言えば、説明をしたくないからだろう。説明をしている絵が、下品だと感じるからだ。最近は説明だけの絵らしきものが多いわけだが、文化の衰退がそうした物を絵だとしている。