ギンネムと耕作地

   



 のぼたん農園にもギンネムは自生している。美しい木姿で楽しませてくれている。一番ありがたいことは防風林として機械小屋を守ってくれていることだ。小屋が出来て2年目にして、50本ほどの木が、3mほどにも伸びている。かなり風を防いでくれているはずだ。

 先日40mの風速の風があり、2本が倒され枯れた。と言うことはもしギンネムの林がなければ、小屋にも何らかの影響があったはずだ。この調子で木が増えてくれれば、かなりの防風林になってくれるはずだ。小屋からの眺望はなくなるが、台風を思うとそれどころではない。

 ギンネムはネムノキなどの仲間の樹種で、マメ科の植物である。空中窒素を固定できる根粒菌を共生させている。ネムノキなどと同じ系列の木で、土壌流失の防止、土壌改良のために明治43年に沖縄県へは明治43年国頭農学校の黒岩亘校長がスリランカより導入したとされる。

 このことはどういう訳か、以前は書かれていた記事があったのだが、クロトンなど他の樹種は書かれているが、ギンネムのことは特定外来生物の指定のことがあり、消されているような気がする。黒岩氏は土佐の方だ。植物学者の先輩牧野富太郎氏と同様に評価されるべき方だ。
 ギンネムの導入は立派なことで、恥ずべき事など何も無い。顕彰されるべき事だと私は思う。ギンネムが悪いのではない。人間の暮らしの方がおかしなことになったのだ。狭い環境原理主義に陥ってはならない。私も先祖が土佐の人間なので、いくらか郷土愛もあるのでここに書かせていただいた。

 ギンネムは根が深く、崖地の崩壊を防ぐ能力も高い。保水能力もあり、水の大切な島では、とても役立った歴史がある。成長が早いので薪炭材としても役立った。窒素を固定して畑の土を良くする上に、山羊や水牛の餌にも成る。バイオマス量で考えれば、ギンネムは傑出した植物なのだ。

 ところが、世界の侵略的外来種ワースト100指定されてしまった。排除すべき植物になった理由は、再来植物を圧倒すると言うことらしいが、これほど有用な樹木を利用仕切れない事の積みは人間にある。人間の自然に従わない生き方の方が問題ではないだろうか。

 人間の暮らし方が自然から離れたためだ。里地里山的な暮らしであれば、亜熱帯の石垣島で、ギンネムを排除するなど考えられないことだ。山羊や水牛は、草よりもギンネムや桑の木の葉が好物なのだ。たぶん、葉にあるミネラル分の豊富さを彼らはよく知っているのだ。

 ただし、牛はギンネムを食べ過ぎると中毒を起すと言われている。家畜化して牛の消化能力が衰退したのだろう。山羊や水牛のような野生動物日買い物は、消化能力は半端じゃない。毒分も難なくこなしてしまうのだろう。それは発酵の能力が高いと言うことなのだ。

 沖縄には「ギンネム茶」という健康茶がある。これこそ無限に材料があり栽培する必要も無い。ミネラル豊富で健康茶として優れていると言うことだ。乳酸発酵することでお茶にする。ウーロン茶の50倍のカルシウムをはじめ、マグネシウム・カリウム・リン・鉄など、まさに理想的なミネラルバランスを誇る健康醗酵茶。とある。

 この発酵能力が水牛は極めて強い。例えば、アメリカハマグルマのように毒性の強い植物でも水牛は食べてしまいお腹を壊さない。それは反芻の能力が高い為なのだ。水牛は水飲み場に分や尿をする。それを飲んでしまう。その汚れた水に含まれる様々な菌を反芻するときの発酵原菌にしているのだ。

 だから、よほど毒性の強い植物まで餌として利用できる。野生動物の力量はすばらしい。それが家畜化した牛はきれいな水を好んで飲んでいる。汚い水を飲めば下痢をするのだ。水牛はどれほど汚い水でも大丈夫だ。これは見ていて、大丈夫かなと不安になるのだが、分を見ると大丈夫だ。

 そう、人間も家畜化したのだ。すぐにお腹を壊す。最近の子供達は汚いものを食べることが出来ない。そういう身体になったのだ。当たり前かも知れないが、私はしょっちゅうお腹を壊していた。お腹を壊しながら免疫力を高めたのだ。その結果少々のことでは大丈夫な身体を作ることが出来た。汚い暮らしが長寿の元。

 里地里山の循環型の永続性のある農業が、化学肥料の農業になった。だから、根粒菌を共生して、空中窒素を固定すると言う類い希な能力のギンネムを畑に植えて、肥料を供給させるような循環型の農業を忘れてしまったのだ。樹木を混植する農法が存在したのだ。

 人間の暮らしは100年の間に様変わりしてしまった。江戸時代の日本は里山の樹木がエネルギー源だったのだ。近くに薪山があるから、嫁に行きたいという言い伝えが残る。薪で煮炊きしない。炭で暖を取らない。里山のいらない暮らしに変ったのだ。そうなればギンネムのすぐに大きくなる特性も、却って迷惑なものになってしまったのだ。

 白いぼんぼりのような美しい花。柔らかな緑も潤いがある。石垣島に里地里山の暮らしが戻れば、ギンネムはきっとまた大切にされることだろう。確かに在来の植物の中にはギンネムに追いやられて絶滅するものもあるだろう。しかし、暮らしに役に立たないものであれば、絶滅も止むえないだろう。

 問題はここなのだ。環境とは何かだ。太古の自然が素晴らしいのではなく、人間の暮らしを豊かにする自然が、人間のための環境のはずだ。石油があるからそれを使えば良い。原子力があるから、バイオマスなど関係ない。これでいいはずはない。

 人間の暮らしにとって良い状態が、良い自然環境のはずだ。私はいくら貴重だと言われても、毒虫やハブはいな方が良い。蚊やハエが飛んでくれば追い払う。ブヨが出てくれば田んぼには入らない。田んぼにヒルが居たら困ると思っている。

 マムシやハブも居ない方が良い。在来の動物だと言っても迷惑な動物はいない方が良い。どうだろうか。ハブが居なくなると何かバランスが崩れ、石垣島の自然環境はおかしくなるのだろうか。そんなことはない。ハブの居ないという島もあるではないか。ハブ淘汰にマングースを入れたのは間違えだったのだが。

 環境原理主義では、環境にあるものはすべてが大切で、極端に言えば、コロナのような病原菌だって守らなければならないことになる。私は人間の暮らしに迷惑になる物は排除して構わないと考える。そして、人間の暮らしに有用な物は外来植物であれ、大いに利用するべきだと考えている。

 環境の豊かさを守ると言うことが、人間の暮らしに適合する環境を作り上げるという現実との調和を見なければならない。農作物はほぼすべてが外来植物である。こうした植物の御陰で人間は生活が出来ている。ギンネムのような植物が何故稲とは違い、排除されなければならないのか。確かに世界自然遺産の島西表島にはギンネムはいらない。あって良いのは田んぼぐらいかも知れない。

 ギンネムがどこでどんな生物を淘汰しているのか、是非とも具体的に議論して欲しい。稲を作る田んぼが、ラムサール条約では湿地として扱われている。外来植物が作られている耕作地が、何故自然の豊かさを維持すると認定されたかを考えるべきだ。

 作られた自然が人間の暮らしよい環境なのだ。それは循環して行くものでなけばならないが、在来の植物であれ、外来の植物であれ、循環型農業に適合するものであれば、有用植物と考えるべき物だ。外来だからすべてを悪とする考えは、時間軸が身近すぎるのだ。

 せめて1万年単位ぐらいで、自然を見るべきだ。時間が経過すれば自然は落ち着くところに落ち着くのだ。豊かな自然を形成するための人間の暮らしの方を考えるべきだ。砂漠を緑化するにはどういう植物が有効か考えて、外来植物であれ利用するのが人間の知恵である。

 - 楽観農園