自給生活に戻ってみよう

   



 少しでも自給生活に近づくように日々暮らしている。石垣の強烈な光の下で、ひこばえの田んぼを続けている。もうすぐ75歳の誕生日だが、何とかまだ身体は動く。真上に来た太陽が輝く、夏空の下で、1時間くらいならまだ何とか働くことが出来る。

 無理をせず1時間休んでと言うか、一時間絵を描いて、また1時間働く、これを一日に3、4回はできる。毎日動いていると、まだ衰えないでからだが動く。80歳まで働くことが出来れば、のぼたん農園も形が出来る事だろう。半分は来てしまったがあと5年ある。

 毎日は田んぼ仕事はやらない。と言うかそんなに仕事はない。石拾いをするとか、何か直し物をやるとか。草刈りをする。これは限りなくあるのだが、ちょうど、今のところ刈払機が壊れているし、ハンマーモアーも壊れているので、草刈りはやらないで居た。

 何もやらない日は一日絵を描いている。それでも気分転換に、水牛と遊びに行く。水牛は草を食べに現われるとき以外は水の中に居る。行くと面倒くさそうに水から出てくる。犬のようにしっぽを振って出てくるわけではない。なんか用か、仕事があるのか。と言うような感じで近づいてくる。

 種付けに来ている雄の「きよまる」は最初は突撃を繰り返していたのだが、やっと馴染んできた。まだ注意は必要だが、呼べば入り口まで来るようになった。かなブラシで頭を擦ってやる。これが水牛を手名付けるには一番良いようだ。

 毎日がやりたいことで埋まっている。ありがたいことだと思う。それが自給生活の一番良いところだと思う。今日は何をするかな。そう思うだけで愉快なことだ。溜め池の土手の直し。石を運んで進めている。前より、3番溜め池の水位が上がった。20㎝水位が上がれば、5番田んぼの水が2日間長く維持されるはずだ。そんな工夫を重ねることが面白いのだ。

  100年前はみんな自給生活者だったのだ。私ならば、お爺さんやお婆さんの時代はごく当たり前に、自給生活で暮らしていたのだ。みんなで協力すれば誰にだって出来る。そこまで戻るという気持ちになれれば、何も怖いことはない。日本列島は自給が出来る素晴らしい土地なのだ。

 汗が身体から湧いてくる。拭いても拭いても湧きでてくる。石垣に居るとサウナに入りたくない。サウナに入らないでも、汗をかくので筋肉痛にはならない。暑い中でも歩くだけはしている。それがサウナ以上の汗になる。水牛の見回りは1回千歩になる。少なくとも3回は行くから、それだけで3千歩のでこぼこのさか道を歩くことになる。

 80歳ぐらいまでは何とか自給生活を続けなければならない。出来れば90歳ぐらいまでやれれば良いが、まだいつまで動けるのか、そもそも生きているのかどうかも分らないが。何歳まで自給生活が出来るのかも挑戦するつもりでいる。90歳過ぎても自給生活をしていれば、自給生活部門の人間国宝指定ものだ。

 次の時代には自給生活の技術が、とても重要になっているはずだ。それまでに、石垣島での自給技術を完成しておきたい。一日1時間働けば、食べ物の自給は出来る暮らしである。必ず出来ると思って工夫を重ねている。今一番分らないのが、大豆の作り方である。

 一体何時種を蒔くのだろうか。何という品種を作れば良いのだろうか。石垣島で昔作られていた地大豆と言われる品種は、つる大豆でとても作りにくい品種だ。もう少し作りやすい品種を見付けなければ、とてもだめだ。繰返し作ってみるしかない。

 自給生活を始めた1990年に較べると、いくらか自給生活を楽しむ人が増えたような気がする。あしがら農の会のような活動が、各地にあるということを聞く。それだけ、地方の空洞化が進んだと言うことでもあるのだろう。放棄された農地を市民が耕作しなければ、日本の食料自給は出来ない。

 自給の暮らしを始めて見ようと思えば、誰にでも出来る条件が生まれている。農業者になれないようにしていた壁が、今はほとんど無くなった。あんな馬鹿げた嫌がらせを何故、農業委員会ではやっていたのかと思う。既存の農業者が恐れていた幻影は、何だったのだろうか。

 いま、小田原の加藤市長が再選された、加藤憲一氏が農業委員会に農業者の申請をしたときに、小田原の農業委員会は、書類を審査せず先送りにしていた。加藤氏が朝日新聞で取り上げられ、新しい農業の始め方を主張したことにおびえたような感じがした。

 私は山北で開墾をして、農業者になる資格に達成した。3反歩だったかの畑を開墾して作った。山林を購入して、だんだん畑にしたのだ。所がまずこの杉の木を10本以上切る際の申請がないというので、中止を命令された。何という嫌がらせかと思った。

 山北で普通の人がそんな申請をしたのは私が初めてだった。10本ぐらいの木は誰だって伐採して、文句も言われない。田んぼを借りたのだが、水利組合が水を使う権利はないとして水を止めた。結局山北では、家の脇にしか田んぼが作れなかった。次々に嫌がらせは続いた。

 面白いぞと、意欲がさらに増した。農業者ではないのだが、そこで養鶏業を始めていた。経営も出来るようになってい
た。面積も経営の条件をそろえて申請をした。それでも山北の農業委員会は一度は拒否はした。神奈川県の農業会議に正式に抗議をしたために、農業者になることを認めざるえなかった。

 それ程自給農業者が怖かったのだ。つまり、農業者である事が、まだ既得権であると思い込んでいた時代だったのだ。所が実際の所農業者で在る既得権など少しも無くなっていたのだ。自民党と農協が、農業者を守れという訳の分らない、方針だったのだ。農業者は守られると言う差別を受けていたのだ。そして暮らせなくなった。
 
 自給農業ほどおもしろいものはない。園芸のようなものだ。私は洋蘭を趣味にして、かなりのめり込んだ事があった。今思っても楽しかった。蘭友会に年間を通して咲いた花を出品すると、年間出品賞というものがいただけた。多分10年連続ぐらい貰ったはずだ。

 ビルの屋上の温室でやっていたのだが、熱中できた。あの頃は部屋で絵を描いて、屋上に行き蘭の世話をするという暮らしの頃だ。フランスから戻ってからの15年、絵描きになろうともがいていた間の事になる。蘭栽培に熱中していたから、精神が保てたのかも知れない。

 それが、今では自給農業をしながら、絵を描く暮らしである。蘭栽培よりも、自給農業の方がはるかにやりがいがある。何しろ自分の食べ物を作るのだ。面白い上に、命に関わることだ。自分の生き方に繋がることになる。絵にも影響をする。

 山北に行くときは蘭栽培で生計を立てようと考えていたものが、バブルが崩壊して、蘭屋さんが行き詰まることになった。その姿を見て、蘭栽培から養鶏業に変った。好きで飼っていた日本鶏がいつの間にか、自然養鶏になっていた。養鶏と自給農業の組み合わせが、相性が良かった。

 いつの間にか自給農業に専念するようになり、農の会を始めていた。それからここまではあっと言う間だ。小田原で何とか完成した自給技術をもう一度、石垣島で探ろうとしている。何とか進んでいる。実に面白い。「ひこばえ農法」「あかうきくさ農法」出来るはずだと思い挑戦している。


 

 - 楽観農園