地震のニュースは避ける

   



 能登半島地震のニュースが続いている。寒いこの時期に避難所は苦しいことだろう。感染症も流行しているから、大変な状況だ。北陸には友人がいるが、気になって仕方がない。何も出来ない。災害ボランティアというのも行ったことがない。いくらか寄付させて貰う以外に何も出来ない。

 気持ちは災害現場を思い出さないでいたところだ。災害の場面を見たくないという気持ちが強い。想像すればどれほどのことが起きたかは分かる。地震、津波、火事。まさか元旦にこんなことが起こるとは、ひどすぎる。ただでさえ悲観的な日本の未来がさらに暗くなった。

 広島も長崎でも原爆資料館の前まで行ったが、原爆資料館は見ていない。高校の時の修学旅行では見学もあったが、入ることが出来なかった。テレビで能登地震の被災場面がニュースで流れるが、すぐ消してしまう。忘れていたいと言うより、人ごとではない恐怖で忘れられない。自分の心の弱い部分に漂っている。

 それはウクライナも、ガザも変らない。あの悲惨な場面を思い出すのも嫌なのだ。できる限り見ないようにしている。何かそういう場面を使命感として伝えて行こうという報道の精神がある。沖縄では戦争語り部と言うことで、体験者から話を伺うと言うことが行われている。風化するからと言うことだ。

 辛い事を風化させて忘れる、というのも一概に悪いことではないと思う。忘れないければ生きていられないようなこともある。必ずまた起こる大災害。同じに考えてはいけないことだが、戦争も近づく気配がする。どれほど悲惨だとしても必ず起こる。そして、逃れようがない。戦争は大災害を人工的に起しているようなものだ。

 そうか、風化するのかと思う。聞いたことも、見たこともないが、風化どころか大地震の悲惨さは、恐怖感と共に生々しく感じている。体験者から話を聞かないと分からないと言うが、聞かないでも十分に分かっているつもりだ。人が理不尽に津波にのまれてしまう。火事が起これば消すことが出来ない。こんなに恐ろしいことはない。

 戦争は問題をより深刻化させるだけで、何の解決にもならない。これほど、馬鹿げたことがあるかと思う。正直これ以上災害や戦争のの状況に触れたくない。申し訳ないことになるのかも知れないが、悲惨なことから目を背けたい。

 見ないでも、聞かないでも想像はできる。体験者から話を聞かないと分からない、風化してしまうと言うが、本当にそんなものなのだろうか。私の中では想像だけなのだが、悪夢として蘇ってしまい困っている。テレビを付けて、いつもみるニュースが見られない。

 戦争語り部は、2度と戦争が起きないために、その実体験を伝えていく事なのだろう。実体験のある人が居なくなり、戦争の風化が言われる。戦争を無くすために、悲惨な被害体験を残すことも大切だとは思う。否定するわけではない。しかし、戦争体験のトラウマを思い出す人も辛いことだろう。

 むしろ、加害体験としての戦争責任を問題にしたい。悲惨な人殺しで1千万人が死んだと言われている。日本帝国が行った愚かな過ちを、日本人の一人として自分の問題として自覚したい。そして風化させない活動である。日本国を帝国として拡大させようとした過ちを、忘れてはならないと言うことではないか。

 これは戦後世代である私にも、日本人の一員としての加害責任があると考えている。その加害責任とは、今のいま、武力で人を脅して抑止力と主張する行為が、間違ったことなのに止められないことだ。この武力思想を克服できない人間の愚かさを落胆する。

 人間として責任を負わなければならないことは、近隣諸国への加害だと思っている。人に刃物を突きつけているのは、防御であるとしても恥ずべき加害行為だ。その自覚もない、武力に傾斜し始めた日本人が恐ろしい。何が仮想敵国だ。そんな考え方は恥ずべき事だ。

 戦争を避けるためならば、領土を差し上げる行為は主権を損なうことではない。「戦争で解決できることは何もない。」これが戦争が悪い事である最大の理由だ。ロシアのウクライナ侵攻でも、ハマスのイスラエル攻撃でも、問題を深刻化しただけだ。戦争二度の要は理屈を付けたとしても、怒りの爆発に過ぎない。

 戦争の悲惨を理由に戦争反対を主張するのを間違っているとまでは思わないが、戦争が無駄なことだと言うことを考えるべきだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争。アメリカは国外で戦争を続けてきた。何かが解決できたとは思えない。

 仕方がなく戦争にひきづり混まれただけのことだ。国際問題がおきた。解決しようとして戦争になる。しかし、問題がより深刻化する結果になる。この繰返しばかりだ。それでも人間が戦争を止めないのは、戦争が好きだと言う、暴力主義の人が居るからに違いない。それ程人間は愚かなものなのだ。

 日本にもそういう戦争好きとしか思えない政治家がいる。屁理屈はこねるが、要するに武力が好きなのだ。刀剣の趣味とか、ナイフを作る趣味とかがある。銃を所有し飾るような最悪の趣味の人も居る。人を殺すような道具が美術館にあって、国宝と呼ばれたりする。私は見たくもないので、できる限り避ける。

 今大地震で生き埋めになって、発見できない人が何十人も居る。どれほど辛いことだっただろうか。そのことを思うと辛すぎる。何という理不尽なことか。学生の頃、何度もみんなで絵を描きに行った能登半島。思い出の詰まった能登半島で、こんな大地震が起きたのだ。悲しすぎることだ。

 生きていると言うことは、いつもこういうことなのかも知れないと思う。人は死と向かい合って生きている。死は避けざる得ないことだが、忘れていたいことだ。何故忘れていたいかと言えば、死は終わりだからだ。生きている自分が終わると言うことは一日でも先に延ばしたい嫌なことなのだ。

 だから当然忘れているのが一番の、極楽とんぼの天国である。しかしすべてが終わることは忘れたくても忘れられない。不老不死にも成れない。天国などないし、生まれ変わることなどあるはずもない。となれば、今日一日を生きると言うことに向かい合う以外にない。

 生きている以上必ず死ぬ。それを考えれば、今を十分に味わう以外にない。死を逃れることは出来ないのだから、受け入れる以外に仕方がないことなのだ。大災害はその理不尽な死を、まざまざと思いださえてくれる。悲しいことだ。

 生きると言うことを一番実感するのが、絵を描くという時間のようなのだ。絵を描いているときは何かを思い出すと言うことも無い。絵を描くことが一番手応えがある。命の一秒一秒刻んでいるものが、目の前に現われる。それが絵だと思っている。そういう絵でありたいと思っている。

 生と死を明らかにして、あきらめるとした道元禅師。只管打坐と道元禅師は書かれている。私には生きていると言うことは只管打画だと思える。私は私流で、生と死を明きらめるほか無い。災害の映像、戦争の映像。死ぬと言うことを思い出させる。だから耐えがたいのだろう。

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