廃村は全国に千以上あるそうだ
廃村を尋ねるユーチューブを見ることがある。軍艦島ではないが滅び行く物の姿にはどこか惹きつけられる物がある。しかし悲しいのだ。どこの日本人よりも日本人として誇りを持って、暮らしていた人他達の暮らしがそこにはあったのだ。消滅などと言って、忘れて良いはずがない。
耕作放棄地の絵ばかり描いていたことがある。耕作地という物は人間の営みなのだ。それが失われて行くと言うこととは、人間の営みが失われて行くと言うことでもある。日本の山村はどんどん人が住まなくなっている。古い廃村にゆくと、植林した林に石積みだけが残っている。
どこから集めたのかと思うほど、大きな立派な石垣が残っていたりする。立派な石垣であればあるほど、かつてそこにあっただろう、豊かな暮らしのことが忍ばれる。日本の山の中にはこれほど沢山の廃村があるのかと驚くばかりである。
少なくとも小学校があった集落で、今は人が住んでいない集落は1000以上あるという。生まれた場所である山梨県の境川の藤垈の部落も山村ではあるが、今は昔より生活基盤は整い、豊かに暮らしているように見受けられる。消滅と言うよりむしろ私がいた頃よりも活性化しているかのように見える。
それでもお隣の芦川村は消滅の危険があるとされている。私が尋ねた頃は2000人以上の人が住んでいたのだと思う。中学校は戦後新しく出来たと言うことだったが、生徒は何十人もいた。おじさんの授業を窓から眺めたのだ。現在の人口は380人とある。
学校は明治6年に開校とあるから、明治時代もかなりの人が暮らしていた集落なのだ。江戸時代は炭焼きが大きな産業だったから、山村もそれなりに暮らせたのではないかと思う。炭焼き小屋が山の至る所にあった。向昌院にも炭焼き窯があった。
芦川には、石和温泉駅からバスがあるというので驚いた。新しい居住者が民宿などやられているようだ。子供の頃叔父が芦川中学の教師だったこともあり、鶯宿という集落を何度か尋ねたところである。鶯宿には行商宿があり、万屋さんも兼ねていた。その宿屋さんには後になってからも行って泊めていただいた。
当時は車では行く道もない集落で、歩いて行くか、馬で行くほか無い村だった。藤垈から鶯宿峠を越えて半日かけて行く。鶯宿峠には何じゃもんじゃの木と呼ばれる木があった。峠の目印にこの辺りにはない樹木が目印に植えられていた。両面檜と呼ばれていた。この峠までは時々登った。何じゃもんじゃの木の下でおにぎりを食べて戻るだけなのだが。
最近注目の牧野富太郎氏がこの木を檜の変種である事を特定して、両面檜と命名したと言われていたと言うことを知った。その木は今は倒木して無くなってしまった。思い出まで失われたようで、悲しい気分になる。あれから60年以上が経過したのだから仕方がない。命あるものには終わりがある。
鶯宿峠のことは井伏鱒二氏も書いている。いつも絵を描きに行く、花鳥山の方から、芦川峠に登り、峠から鶯宿峠の方に回ったようだ。親交のあった飯田蛇笏氏の住まいが小黒坂にあり、良く尋ねたらしいからそこから向かえば近い。芦川ではイワナ釣りをしたのかもしれない。
当時の芦川は藤垈より豊かではないかという暮らしがあった。「こんにゃくでいじん」と言われて、こんにゃく栽培で豊かになったと言われていた。車も行かない村なのに、藤垈の集落よりも遙かな立派な建物が建っていた。石が多くてこんにゃくしか作れなかったことが幸いしたとか、イノシシが食べないので、こんにゃくを作っていたのでそれが大当たりしたと言うことだった。
自動車では行けない、歩く道しかない山奥の村が、豊かであるというのが忘れられない記憶となっている。お風呂を電気で沸かすのだ。芦川に発電所を作り、その電気をみんなが使っているから、電気は使いほうだい。あの発電所は山梨県で最初に電気を灯したものだと教えられた。
明治33年に出来たものだとある。東京に電気が始まってから、13年後のことだから早い。何故か、あの山の中に最初に電気が来たのだ。ここで発電した電気が甲府まで送られていたと言うから、何か不思議な気がする。その電気が昭和30年頃には、住民がお風呂を電気で沸かしていたのだ。
明治時代までの山村はそれほど特別な場所ではなかったのだろう。普通に未来永劫日本人が暮らして行く場所だったのだ。芦川に明治6年に学校が出来て、明治33年に発電所が出来たとしても、芦川には芦川の未来への希望があったのだ。懐かしい日本の原風景ではなかったのだ。
小学校は今もあるが、中学校はなくなったようだ。小学校の新入生が転校生が一名あって2名だったとある。芦川の中学生はどこに通っているのだろうか。何故、芦川小中学校ではないのだろうか。芦川村の標高は高く、上芦川では1000m以上の場所で暮らしている。
私が鶯宿に行ったときにはイノシシが村の畑まで来るので、部落の周囲に堀を掘って、イノシシが入れないようにしていた。その堀に橋を渡してあり、夜になれば通れないようにしてあった。水田は8ヘクタールあった記録されているが、確かに田んぼがあった。お爺さんが田んぼをやるのも寒くて取れない年もあって、なかなか大変だと言われた記憶がある。
芦川のことを思い出していたのは、全国の消滅してしまった千の集落のことを考えていたからだ。芦川はまだ380人の人が暮らしていて、移住して行く人もいるから、消滅はしないだろう。芦川の素晴らしさを思うとあの暮らしが何時までも続くことを願う。
日本全国の消えてしまった千の集落が、芦川村と同じように素晴らしいところであったに違いない。日本人はそうした山村で出来上がったと考えて良い。そこには古い時代そのままの伝統的な暮らしがあり、その一つ一つに日本人の原点と言えるような暮らしがあったに違いない。あの日本の暮らしを失ってはならないのだと思う。
消滅した集落に出掛けて行き、ユーチューブで報告している人がいる。時々見てはああここには人が暮らしていた頃行ったことがあると驚く。学校跡があるということは、中山間地も過疎ではなかったのだ。1960年代に入り、高度成長期に入り、都市への人口集中が起こる。出稼ぎ、集団就職、団地の造成。都市へと人口の流入続く。そして価値観の変貌が起きたのだと思う。
日本人が山村で暮らす原点である、人間としての誇りである。多くの山村で何故これほどの山の中で不自由に暮らしているのか、と不思議な場所で日本人は暮らしていた。そうした村では花山天皇が暮らされていたとか、平家の末裔が移り住んだ、芦川では足利義澄の家臣が逃げ延びた。というような伝承が残されている。
それは自立して生きる人間としての誇りなのだと思う。それは藤垈集落よりも一つ奥の大窪の集落の方が誇り高く暮らしていた訳だ。小田原でも、一番山付きの集落である、坊所や舟原の集落はそれより下の集落よりも、誇り高い歴史や仕事を主張する人が多かった。
たぶん奥に行けば行くほど誇り高くなければ生き抜けなかったのだろう。古い時代は炭焼きというエネルギー供給が大きな仕事だった。山の中で暮らすという利点はあった。またぎや木地師やサンカと呼ばれる人が、誇り高い日本人として山の中に一種独立した日本人として暮らしてきた。
山の中に暮らすことは、立派な誇り高いご先祖から引き継いだものだと言う意識があった。あえて山の中で暮らしているという特別な意識に支えられて暮らしていた。子供なりに芦川の人にはその誇り高さを感じた。大窪の人が何故あんなに偉そうなのかと思ったものだ。
日本人が失った者は人間としての誇りなのだ。資本主義経済の能力主義は、山村に暮らす日本人の誇りを根こそぎ奪った。ところが奪ったはずの能力主義の方はと言えば、そもそも卑しい拝金主義だけが、よりどこだったのだ。これでは日本の停滞は止むえないことだろう。
日本の過疎空洞化を解消するためには、人間としての誇りを取り戻す以外にない。私が自給生活をするために山の中の暮らしを始めたとき、それを支えた物は人間として生きる誇りであった。自給自足の原点から、生きる事を再生しようと言うことは人間として尊いことだという思いであった。