環境活動は守る会から、作り出す会へ

   



 多くの環境活動が、環境を「守る」を掲げている。それはもちろん大切だし必要なことではあるのだが、もう守るではどうにもならない状況だと考えなければ成らない。環境の豊かさを守るためには、環境を作り出す以外に無い。日々自然環境は劣化し様々な生物が絶滅を続けている。それほど地球は緊急的な状態に思える。

 環境を守る活動が環境を壊すものに対して反対運動になる。これは仕方がないとは言え、何かがおかしい。環境を破壊するものが次々に登場する。それに対して反対運動を掲げざる得ない。その行為は間違っては居ないが、環境を大切にするという精神から言うと、かけ離れていてどこか空しいことである。

 例え環境を破壊するものを防げたとしても、環境はどんどん劣化を続けている。その原因は人間の暮らしがおかしいからである。人の暮らしが自然を破壊するものになっている。その暮らし方を変えないで、環境を守ることはできない。地球には許容量があるのだろう。地球の大きさに対して、人間の数が多すぎるのだ。

 にもかかわらず、政府は少子化対策だそうだ。まあ、政府がどう躍起になっても少子化はさらに進むだけだろうが、政策としては子供が大切にされると言うことになるのだから、悪い事でも無い。人間の適正数と言えば、日本列島で5千万人ぐらいだろうか。

 環境を破壊しないで、食糧を自給できる規模ならば5千万人くらいだろう。人間が新しい暮らし方を見付けない限り、人間は環境をさらに劣化させて滅びゆくはずだ。そのような未来の姿はすでに見えてきているのだろう。人類の暴走と消滅。

 人類の進歩調和と掲げられたのが、1970年の大阪万国博覧会だった。あれから半世紀以上が経過したが、あのときの夢や希望が潰えた半世紀ではなかったのか。あの頃は金沢にいた大学生だったのだが、万博には何の興味も覚えなかった。茶番にしか思えなかった。

 岡本太郎には失望した。縄文を評価している岡本太郎が遊園地の看板のような、張りぼての太陽の塔を作る醜さを思った。ちゃちなテレビの恐竜の張りぼてと何ら変わらない太陽の塔だ。藝術は爆発ではなかったのか。進歩と調和をどのように爆発させたのか。完全にアバンギャルド精神を失った。

 奈良の大仏と太陽の塔を連続して見比べたら内容の違いが分かる。人類の劣化と不調和である。進歩してゆくという考え方自体が間違っている。確かに人の暮らし方は変わって行く。失われて行くものがあり、新たに生まれてくるものがある。ただそれを進歩とは言えない。

 進歩して、調和してだんだん良くなるどころか、半世紀経過して日本は停滞した。その原因は進歩するという思い込みにあったのだろう。絵画で考えれば、学生時代の方が日本の絵画の水準は、今より高かった。これはこの時代に絵を描くかなりの人がそう考えているところだろう。

 文学も同じではないだろうか。万博の頃には井伏鱒二や大江健三郎が居た時代だ。日本の現代文学はどうだろうか。村上春樹なのか。やはり宮沢賢治まで遡れば文学の水準も劣化を続けていると言わざる得ないのではないだろうか。

 「いのち輝く未来社会のデザイン」 これが次の関西万博のテーマだそうだ。いのちはどう輝くのだろうか。電球が切れる前のように、最後に一時輝くと言うことを意味するのだろうか。未来社会というものが果たしてあるのだろうか。資本主義の次の時代に人間は行けるのだろうか。

 未来社会を思い描くことが出来ない。むしろ過去の社会の良さを考え直してみる以外に人類の生存の可能性はないと思える。プラステックを作り出し、人間の暮らしは、想像を絶するように便利で、快適なものになった。小学生の頃までは、経木や竹皮で食品をくるんでいた時代だった。

 便利なプラステックが、マイクロプラステックになって、人間を滅ぼそうとしている。海岸のゴミ拾いぐらいでは到底追いつくことがない。ゴミ拾い活動など止めた方が良いのかも知れない。海岸がプラスティクゴミであふれかえれば、発生源を何とかしようと考えるのかも知れない。

 環境活動が問題解決に繋がっていない。むしろ問題を見えなくしているのかも知れない。こんなことを書けば怒られるかも知れないが、尻拭いをする環境ボランティアでは解決できない。私も海岸ゴミ拾いには参加している。余りに汚いから掃除をするが、何かを解決している気にはなれない。

 環境を作り出さなければならない。豊かな環境を生み出さなければならない。人間が生きると言うことは環境を破壊すると言うことだ。食料生産は必ず環境破壊である。食料生産は折り合いの付く範囲でやらなければならない。少なくとも折り合いを見付けながら行わなければならない。

 水田が最も環境と折り合いの付く食料生産方法である。小麦やトウモロコシよりも折り合いが付く。環境を守ろうという人は世界中どの民族も米を食べるべきだ。江戸時代の稲作は3000年の循環型農業の実績がある。イネは自然農法で生産可能な作物である。

 人口増加が環境破壊の元凶である。調和の取れる未来社会のデザインであれば、先ずは人口減少を考えなければ成らな
いだろう。森林を燃やして、農地を作らなければ、食料が足りないという現状では、人道的観点から環境破壊である、農地開発をせざる得ない。

 すでに地球は調和が取れなくなっているのだ。すでに危機的なところに来ている現状を認識するところからだろう。すべての人が生活を変える以外に人類に未来はないだろう。パン食からご飯へ変えるだけでも地球はひと息をつけるはずだ。

 そのように考えれば、経済活性化のための次元の違う少子化対策を行うなどとんでもないと言うことになる。経済は縮小しなければ、地球が終わる。人類は未来に危機を抱いているから、本能的に人口増加を止めようとしているのだ。もちろん子供の暮らしに手厚く税金を向けるのは正しい政策だろう。

 環境活動は環境を作り出すものにならなければならない。守っていても守り切れない状況に来ている。食糧を自給する。田んぼをやって食糧自給をする。少なくともそうした活動を支援する。自給が出来ないものは自然農法を試みる農家からお米を買う。それが環境を守る唯一の道だと考える。

 自然農法の水田は環境を作り出している。たくさんの生き物の生活を支えている。石垣島の希少生物をなんとか持ち堪えているのが水田である。お米は高いと行っても、パンに競べればはるかに安い。石垣島産の自然農法の米を食べれば、それだけでも環境を作り出すことに一歩前進である。


 

 - Peace Cafe