好きなことを見付けることが若者の仕事だ。

   



 「好きなことを見付けることが若者の仕事だ。」これは父が、教えてくれたことだ。72歳まで好きなことをやり続けて、いかに正しいことだったかが分かる。それでも、若い頃は好きなことは何だろうと、悩み続けていた。だから、何度でも言ってくれたことだったのだろう。

 絵を描くことが好きなことのようだとは、小さな頃から思っていたが、まさかこれほどに好きなことだとは、若い頃には分からなかった。子供の頃はニワトリや犬が好きだった。しかし、絵を描くと言うことの面白さは別格なことだった。

 残りの生きている時間絵が描けると思うと、もうそれだけで十分だと思える。それくらい絵を描くことに惹きつけられている。自分の絵にたどり着きたいという目的がある。方角は良いようだが、なかなかたどり着けないということがある。

 小学校5年生の時にははっきりと絵を描くことは好きだと自覚していた。ただ、まさか一生絵を描いていられれば、それで良いとは思わなかった。好きなことは他にも色々あった。やらなければならないというように考えるものは他にもあった。

 いまの時代多くの若者は勉強をして、良い大学に入学して、良い成績で卒業し、立派と言われる職業に就かねばならないと考えているように見える。それが生きる幸せであると、思っているのかもしれない。私の場合そう言う道ではなかったが、少しも生き方を失敗したとは感じていない。

 幸運にも好きなことに出会い、好きなことを続けることが出来たことに感謝している。たぶん、それなりの時間を生きてきてみると、誰でもが好きなことをやりきれる一生というものを、若い人にもやって欲しいと願っているのではないかと思う。

 「若い人の仕事は好きなことを見付けることだ。」これは父はなんども言って、励ましてくれた。まったくそれが本当のことだと今は思う。好きなことを見付けられない人生の方が多いのかもしれない。余り好きとは言えない仕事をしていると言うこともあるのかもしれない。

 それは暮らして行くと言うことを想像したときに、好きなことなどしていても生きて行けるわけが無いと思ってしまうからかもしれない。周りの大人を見れば、それほど好きでも無い仕事を、どこか我慢してやっているように見えるわけだ。そして、好きなことを選んでしまった人は、生活が大変に見える事の方が多いかもしれない。

 野球が好きだという人の内、プロ野球の選手に成れるような人はほんの一部である。まず普通であれば成れないと考える。好きであってもプロ野球の選手には成れない可能性の方が高い。当たり前のことだ。それでも野球が好きであれば、とことんやってみた方が良い。

 やっていれば、野球をやり続けて生きて行ける道は誰にでもあるはずだ。プロの一流選手になれないとしても本当に好きであれば、野球さえ出来るのであればそれで幸せなはずだ。初めから自分の能力など計らないことだ。好きかどうかが重要なので、それで生活できるかどうかなど、人間の一生の意味から考えれば、後から考えればいいことだ。

 私自身、職業画家を目指した。しかしいわゆる画家には成れなかった。だからといって絵を描き続けて生きている。それで十分である。やせ我慢では無く、職業画家になる能力がなかったことなど、残念だとさえ思わない。絵を売らなくて良いのだから自分の好きな絵を描き続けられているとさえ思っている。

 将棋も好きだった。しかしプロ棋士を目指すと言う気持ちはこどものころから無かった。将棋が人生をかけてやる価値があるとは思えなかったからだ。絵はそれだけの価値あるものだと子供ながらに考えていた。この点はそれぞれの人生の価値と言うことから考えれば良いことではなかろうか。

 別段ゲームが好きだからそれをやり続けたいというのであれば、それでいいのだろう。私はそんなことはくだらないことだと思うが、その人がそう思わないのであれば、それがその人の一生である。金魚の改良に一生を費やす人もいれば、素晴らしい寒蘭を見付け歩いて一生を終わる人もいる。

 私も自分の鶏種を作りたいという希望を子供の頃に持った。それは清平のヒョウタンのように熱心だったと思う。真黒チャボの作出に寝るのも忘れて没頭していた。親はチャボを飼うことに没頭していることを、好きなら好きなだけやれば良いだろうと言うことだった。

 そのことは職業として取り組むことになった。絵を描くだけでは食べることは出来なかったし、養鶏をやりながら絵が描ければそれは悪くはないと思ってやっていた。そうしてそのササドリという鶏種でやる自然養鶏をやったことが、自分の絵に向かうことでもあった。好きなことを精一杯やることで道がみえてくる。

 今も田んぼを続けているわけだが、もうこれは絵を描く為には必要なことのように思えている。ニワトリを飼うことで絵というものが少し見えてきた気がする。田んぼをやることを通して自分の絵に近づいていると言う実感がしている。自分というものが見えない限り、絵などない。好きなことをやることを通して自分というものが分かってきた。

 そういう意味では職業
画家になれなかったことは悪い事でも無かったと思う。これは負け惜しみでも無い。野球が好きすぎて少年野球の監督になっている人が、素晴らしい野球人生を生きているのかもしれない。人はそれぞれの人生を生きているわけだ。

 問題は若い時代に好きなことをどう見付けるかにある。一つだけ分かることは好きなことはやり尽くしてみなければ分からないということのようだ。少なくとも2,3年は本気でやってみなければ好きかどうかなど分からない。若い人の好きなこと探しの回り道に無駄など無い。

 とことんやってみなければ好きかどうかは分からない。やってみて、好きでもなかったとなれば、それはそれで一歩前進の発見である。本気で全力でやったことが無駄になるわけが無い。それでも大抵は好きなことが見つからないのが普通だ。

 大人の役割というものは、ある意味子供の手本として、本気で好きなことで生きていることだけである。若い人に好きなことで生きる痛快さを身をもって示していればそれだけでいいぐらいだ。私は幸運にもそういう父を持ち、身近で教えて貰うことが出来た。

 - 水彩画