化学肥料や化学農薬

   



 有機農業や自然農法をやっている人、あるいは環境保護活動をされている人の中には、化学肥料や化学農薬を強く否定する人が多い。わたしは必要ならば使う方が良いことだと考えている。実際に化学肥料と農薬と大型機械によって開かれた近代農業が、人類を支えて来たことは感謝されなければならないことだと思っている。

 自分が化学肥料や化学農薬を使わないと言うことと、人が使うことを否定すると言うことは意味が違う。使わないことは自分の生き方である。大型機械農業を否定しているのは、個人的な思想であり、生き方である。使いたくない人は勝手に使わなければ良いだけのことだ。

 使っている人をとやかく言う必要は全くない。法律で許されているものを生業として使用しているのだから、何の問題も無い。それをまるで犯罪行為のように言えば、もうそこで大多数の農業者と有機農業者や環境保護活動家との間に分断がおきてしまう。よほど注意して発言をしなければならないことだと思っている。

 農薬や化学肥料は環境を汚染しているという一言が、農家と消費者の分断を産んでいることに気付かなければならない。いつも主張していることだが、近代農業を犯罪扱いするのであれば、自分の身体でこうあるべきと言う農業を実践体験してから主張すべきだ。

 そして、消費者としてどれだけ高い食料品であるとしても、有機農産物を購入すべきだ。自分で有機農業をやってみて、それでも原理主義的に農薬や化学肥料を批判するのであれば、それは分断される覚悟があると考えるしか無い。分断されて良いことは何も無いわけだが、それも仕方がないか。

 化石燃料を一切使わない自給自足生活を体験した体験から、農業者すべてが仲間であると言うことが、なによりも大切なことだと考えるようになった。農業を続けてくれる人が居なく無ければ、日本人は絶滅するほか無いのだ。農薬や化学肥料の可能な限りの安全な利用は当面必要なのだ。

 今一番心配しているのは稲の栽培期間全体での肥料効果が続く、物理的緩効性窒素肥料 である。樹脂コーティングされていて肥料成分が徐々に溶け出すようになっている。作業が大いに楽になった。ところが、この樹脂成分が海洋のマイクロプラステック汚染に繋がっている。

 樹脂成分を使わない、緩効性窒素肥料 は色々ある。有機肥料は速効性が無くそもそも、何年もかけて土壌を改善してゆくタイプのものである。化学的緩効性肥料 と言うものもある。代替の肥料があるのだから、政府は樹脂コーティング肥料を早急に禁止しなければならない。

 マイクロプラスティクのような化学合成物質が環境を破壊するというのは現実である。それは人間の身体にも溜まり始めている。しかし、自然農法であれ、有機農業であれ、化学物質や化石燃料を一切使わない農業であれば、先ずは販売するほどの生産物は得られないと言う現実も知らなければならない。

 自然農法では生産性が低すぎるのだ。だから、私は自給農業を誰もがやるべきだと主張をしてきた。人に辛い労働を押しつけるようなことは倫理に反する。やりたいものがやればいいだけのことだと考えている。自分はやる気が無いままに、辛い労働を人に押しつけるなど論外である。

 問題は誰が生産を担うのかと言うことだ。農業者は儲かるわけでは無い。地域の文化と食料生産を支えている誇りから頑張ってくれているのだ。だから子供にやらせられない事が多い。日本中で稲作農業者は極端に老齢化して、減少している。この先日本から農業者はいなくなると考えた方が良いくらいだ。現状を支えてくれているのは大型機械と、外国人の技能研習生と偽称された奴隷的労働者である。

 石垣島で始めて稲作を行ってみて、有機農業の限界と言うことを痛切に感じた。昔、八ヶ岳の標高1000メートルを超える八千穂で有機農業を始めた、窪川さんが有機農業は寒いところでなければ出来ないと断言していたことを思い出した。

 多くの生業として農業をやる人が、有機農業に取り組まないのは当然だと思う。ヨーロッパなどで有機農業の普及が進んでいるというのも、気候的なこともあるのかもしれない。たしかに、小田原でやったときは何とか乗り越えることが出来た。初めから、回りの農家に匹敵する収穫をしていた。

 石垣島でも何とかなると甘く考えていて、つらい挫折を味わうことになった。石垣島で有機農業で田んぼが出来るようになるのは、しばらく先のことのようだ。かならずなし遂げてやろうと決意しているが、ともかく難しいことだけは確かだ。ますます石垣島の農業者を尊敬するようになった。

 有機農業でやれると言うことの意味はその地域の平均収量を超えたときに言えることだ。本来、有機農業の方が収量が多くて当たり前なのだ。理由は科学的に当たり前の事だ。自然の摂理に従い、健全に育てることが有機農業であれば、当然収量は多くなる。もし少ないのであれば、作物が自然の摂理に外れていると言うことになる。まだ有機農業の技術が未熟だと言うことに過ぎない。

 有機農業の方が手間がかかるが、作物には良い状態になり、当然収量も多くなると考えて良い。手間がかかるから、有機農業の方が収益が上がらない可能性は高
い。倍の価格の食料品を買える人など少ない。だから経営を考えて有機農業をやらないのは当然のことだと思っている。

 有機農業をやっていれば、一般の農家から趣味で農業をやるのだからのんきなものだと、こう思われて当然のことだと思っている。だからこそ、収量では地域で一番だと言える有機農業でありたいと思ってきた。また手間を惜しまなければそれは実現できる。石垣島でもその努力をしたい。

 石垣島の慣行農業のイネ作りも、小田原に比べたらはるかに難しい。皆さんの農業の姿を見ていると、それぞれの農業のやり方が独自である。それぞれに違っていて工夫をされている。どなたにも頭が下がる気持ちである。現実に見事な田んぼを見ては頭を下げて歩いている。

 それでも結果的には低い生産量である事も確かである。その問題の第一原因は「ひとめぼれ」である。この品種は冷涼地向き品種である。沖縄で作れないことが無いというものの、十分な生育には成らないと考えるべき物だ。そもそも気候の熱帯化に対応する品種の作出が言われている中で、不思議な選択をしている。

 特に有機農業のように、時間をかけてじっくり育てる農法では晩生の品種が良い。ひとめぼれのような冷涼地向きの早生品種は無理だとおもう。ひとめぼれは東北のお米ではあるが、石垣島でも可能な品種だと言われている。そのように考えるからこそ、沖縄県は奨励品種に指定した。そして20年も栽培が続けられている。ひとめぼれは味が良いお米と言うことで指定されている。

 ただし、奨励品種に指定した時の石垣での実証実験の収量は1期作で6俵。2期作では5俵だったのだ。これほど低い収量のものを奨励品種に指定するという理由は何だったのか。他所の地域では普通8俵ぐらいの品種が指定されている。いくら味が良いお米だとしてもこんな低収量のお米を奨励品種にしてはならない。

 今年の石垣島の慣行農法の2期作のイネ作りでも観察を続けた結果、2期作目の作柄は10葉期ぐらいで葉が出てしまう田んぼが多い。ただ、化学肥料で一気に育てるために、それなりの穂がついている。どうしても、多めの化学肥料を使うためにイモチが出やすくなっているのでは無いかという田んぼをいくらか見受ける。

 長年の経験から来る独特の栽培技術だと思うのだが、10葉期でありながら80センチを越える高さまで成長させている。そして、実に大きな穂を付けている。分ゲツはいくらか少ないことが多いようだが、水切りを徹底する管理で、分ゲツを止めているからのようだ。

 有機農業では1期作だけで行くべきだろう。そして裏作の時期には緑肥を育てなければならない。充分の腐食を田んぼに戻す必要がある。またどんな堆肥をどういう手順で田んぼに入れるかも研究しなければならない。苗作りをしっかりと作ること。石垣島に適合する品種を見付けなければならない。


 

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