小田原生活から石垣島絵画生活に

   


欠ノ上田んぼのハザガケ

 小田原での稲刈りが終わり、石垣島に昨日の夜帰った。今回の小田原はまずは水彩人展であった。そして、柿の下田んぼの稲刈りから脱穀精米と行った。石垣島にお米を送った。溜池の草刈りとカキツバタの株分けをした。

 短い期間であったが、いろいろ学ぶことのできた充実した時間だった。いつもの事ながら、渡部さんが小田原の生活を快適になるように準備してくれていた。これが無ければ出来ないことである。農の会の皆さんや、水彩人の皆さんにも感謝するばかりである。

 人間が生きていると言うことは迷惑を随分かけてしまう。迷惑をかけた分だけ、自分に何かが出来ているのかどうか。こんな状況になるとみんなに支えられて暮らしていることがよく分かる。少しでも出来ることはしなければと思う。

 東京に行くまでは水彩人展は中止すべきだと思っていた。少なくとも参加できるとは考えていなかった。絵だけを出すことはできても、自分で見ることができないのでは意味がない。絵を描くものにとって展覧会の目的は今の自分の絵に向っている状態を確かめるためだからである。人に見て貰うと言う事よりも、自分が学びたいから水彩人展はやっている。

 ところが、どうしたことか突然、水彩人展の開催にあわせるように東京の感染者が激減した。理由は分からないが、祈りが通じたのだろうか。これなら大丈夫だという、200人以下にまでなった。昨日はついに100人を切った。これは石垣島で言えば一日1人以下の状態である。つまり石垣島よりもかなり少ない状態にまで感染者が減少した。展覧会を開催しても大丈夫というレベルまで減少した。

 水彩人展の展示で久しぶりに水彩人の仲間と会う事が出来た。絵の仲間に会えるという事は実に嬉しい。何か無事を確かめあったというような、不思議な再会だった。私と同年代の人が多いいから、それぞれに命の危険を感じたのだと思う。絵が変わった人が沢山いた。私もその一人ではないかと思った。

 絵が変わるという事は難しいことである。人間が変わらなければできないことだ。歳をとってから人間が変わるという事は極めて難しい。しかし、長年描いてきた絵が今更に変わるという事は、よほどのことである。何が人間を変えたのか。

 私の場合、過去の絵をいったん消去して、再出発するつもりでここ5年描いていた。それもあって心機一転するために石垣島に引っ越した。その自己消去の為には一度やれるだけのことをやる必要があるというのが、今回の絵だった。

 そこにコロナによって命の危機が加わった。その為にずいぶんと強い絵になった。明確な断言をしたような絵になった。断言をするという事は、曖昧な部分を無くすという事になる。これは絵というものの持つ、分からないものを分からないと表現すること、絵の余韻のようなものや、詩のようなものを、失うことになっている。

 世界はこうであると結論付けるようなことはできるはずもない。世界観というものは、よほど分からないという事も含めて出来上がっている。問題は世界観にその時点の到達点もあると言うことだ。その世界観の中の不可思議をとらえるものが絵だ。絵での表現というものが求めるものは、科学的論理をさらに超えた深い世界のことだろう。

 ただ今回今やれることのギリギリの所をやったことは確かだ。人の絵から借りてきた様々な物で、でっち上げていた絵はある程度は払しょくできたことは確認できた。これがここ5年の目標だったから、目標通りに進んでいることだけは確かなようだ。水彩人展のお陰である。

 当然のことながら、ここまでを区切りに新しい制作に入るつもりだ。より自由に、自分に従うこと。さらに強くなろうが、どんなにへたくそになろうが、こだわるものをすてて、自分のままに描いてみたいと思う。どこまで人の目を気にしないで、自分というもののままに描けるかである。

 今までもそう考えてい描いてきた。ところがそうあればあるほどに、結局のところ断言をする絵に進んでいた。それは強情な性格から来ているのに違いがない。はずかしながら、それは否定はできない。装ったところで何もならないのが私絵画だ。

 一日一枚は描いてゆくこと続けたいと思う。日々の日常として絵を描くことは意味が大きい。日常こそ自分である。絵は非日常ものではなく、日々の暮らしから産まれてくる。田んぼをやるように絵を描く。それがどういうものであれ、続けてみたい。

 田んぼは体力的に72歳の働き方を考える必要があると思った。以前よりだいぶ疲れる。その場その場ではやれるのだが、疲れが残る。無理は出来ないなと思った。肉体労働の引き際は考える必要はあるが、それでも来年はまた田んぼをやりたいと思った。まだ出来るかもしれない。

 田んぼの仲間と一緒になって働きたい。今年出てきた課題を何としても来年解決をしたい。今年柿の下田んぼでは東さんが管理をしてくれた。東さんには私の知っていることをすべて伝えたいと思って田んぼに関わった。荒れ地から田んぼに戻し、アラオコシ、代掻き、そして苗作り、田植え。

 その後
の水管理も東さんが頑張ってくれた。その結果、なんと初めての田んぼの初めての「ハルミ」が9.6俵を達成した。早刈り気味でなければ、畝取りできただろう。東さんがイネ作りの重要なことを体得したのだと思う。そうでなければ、有機農法で緑肥も作ることなく、ほぼ畝取りまで収穫できるはずがない。

 ハルミは特A の味にこだわった品種で栽培は難しいはずだ。そのハルミが倒れずにすごい株になっていたことには原因がある。ハルミは1メートルを超えた背丈になり、かなり太い茎だ。慣行農法よりも2割も大株である。それで畝取りの大きな穂をつけた。

 倒れなかった原因の一番はそば殻ではないかと思っている。そば殻は入れたとしても窒素分が過剰になることはない。もみ殻ほど腐食が遅い訳でもない。そば殻を上手く使えば、特A米が倒れず多収できるのではないか。来年はこの点を研究してみたい。

 来年は欠ノ上田んぼも含めて東さんの管理でやることになりそうだ。20枚の田んぼが続いた、管理の難しい棚田の田んぼになる。水をどうやって温めるか、間断灌水を上手く取り入れることが重要になるかと思う。上手く連携して、そばがら農法を研究したい。

 次に小田原に行くのは11月の半ばかと思う。石垣島の稲刈りが終わってから、1ヶ月ぐらいかな。大豆の収穫、溜池の工事、冨田田んぼの水路の工事、黒柳さんの田んぼの陥没の対応、麦の播種とやることがいろいろある。農閑期は土木工事の季節だ。ここできちっとやってゆくことが良い農業になる。

 
 

 - あしがら農の会