動禅体操をやり続ける意味

   

 先日の台風で倒れた3番アコウの大木。樹齢250年以上とのこと。今はきれいに整えられ、新しい葉が芽吹いている。

 毎朝動禅体操を1時間弱行う。だいたいの所、目をつぶって行っている。眼を空いていると、視覚に頼ってしまうからである。動禅体操はすべて目をつぶったまま行うことが可能な体操である。視覚に頼ることは禅に置いては望ましいことでは無いと思う。

 禅は半眼で行うように指導された。眼は空いたまま行うようにと、臨済禅の僧侶が書かれているのを読んだことがある。色々あるのかもしれない。師である山本素峯老師から、眼は薄く開けて、見えていて見ないという状態で行うように言われた。

 世田谷学園には座禅の授業があり、その授業の時に教えていただいたことである。山本先生は永平寺から戻られて、世田谷学園に来られた。禅坊主という者の、格段の人間力に魅了された。週一回早朝禅も行われていた。

 禅はすべての感覚を、自由な状態に置くと言うことなのだと思う。人間の脳の中は雑念がひっきりなしに通り過ぎている。これを無念無想にする。これが最も困難な修行だと思う。50年を超えてやってきて今も出来ない。出来ないために、動禅という動きに頭を集中させることにした。

 音楽を聴きながら動禅体操を行うとすれば、音楽の動きに合わせて呼吸をすることになる。呼吸は自分の吸気呼気の間隔で行わなければならない。自分の中で一番深い、長い呼吸の速度で行う。人の速度とも合わせる事はできない。

 目を開いて視覚に頼って動禅を行うと、体重移動の安定を視覚に頼ってしまうことになる。体内感覚としての体重移動を重視したいとすれば、視覚的では無く、内的感覚を呼び覚ますように体重移動をした方が良い。それはなかなか出来ない動きと言うことになる。

 身体の中にある。体内感覚を呼び覚まし、鍛えて行く。見ていてみないことが出来ない以上、目を閉じてしまうことにした。そうするといままで出来ていた動きが、急にたどたどしい物になる。思わず転びそうになることも出てくる。

 うまく出来ない動きをあえて動いてみる。この揺らぎを修正しようとする感覚が徐々に育ち始める。ここが重要だと考えている。出来ないことを何とかしようとやることだ。いつの間にか目を閉じたまま出来るようになっている動きもある。このいままで出来なかったことが出来るようになる過程が、学びの重要性である。

 生きて行くと言うことは、出来なかったことを出来るように努力することである。もしかしたら、出来ないまま死ぬのかもしれない。それでも出来ないことを何とかしようと努力することこそが、大切なことだと考えている。身体を整えると言うことはそういうことでは無かろうか。

 出来ることを出来る範囲でやっているのが、ラジオ体操である。それはそれで意味はあるわけだが、努力して獲得して行くという身体的感覚を育てることは出来ない。身体の動きは意識的なことではない。歩くためにどのように足を出すかなど考えていない。

 身についた自然の動きで日常は出来ている。この身体的動作感覚が重要なことになる。知らないうちに動ける。知らないうちに動禅体操が進んでいる。動禅体操の途中でどの動作を動いていたのかが分からなくなることがある。

 書を描いていると、字を忘れている。動禅体操も似たようなことで、動いている内に、動きそのものになり、どこをどう動いているのかが分からなくなる。知識で動いているのではないので、とつぜん順番が分からなくなるのだ。

 そこで、5段錦とか、動きには名前がある。その動きの名前を思い出すと、その動きに戻る事ができる。しかし、何段だったのかも分からないこともある。そういうときは余り気にせず。思いついたところから続けることにしている。覚えたことを完全に忘れてしまうことが重要である。記憶する能とは違うところで動く。

 名人伝にある。弓を見てこれは何に使う物かと、聞いた弓の名人の心境に近い。知識から離れると言うことの重要性。足はどう出せば良いかと考えている内は、立ち止まり動けなくなる。歩くと言うことは、意識を消して正しく足が出せるようになるまで、反復練習をするほかない。

 絵も同じだと考えている。絵を知識で描いているのでは、それなりの範囲である。絵という物はこういうものであるという観念で描いていることになる。今何をやっているのかさえ分からないまま、描けるようになる必要がある。その状態の意味は出来上がった絵が示している。

 おかしな方角に進んでいれば、改めて絵を見て正せば良いことだ。出来れば、仲間と絵を挟んで語り合うべきだ。水彩人をそういう仲間だと思ってきたのだが、いまは会うことも出来なくなっている。それも運命なのかもしれない。明日は会議があるが、私には行くことが出来ない。

 仕方がないと言うこともあって、日曜水彩画展示を始めた。せめてもの事である。決してそれが良い発表方法だと考えているわけでは無い。ただ描いているだけよりはいい。一日一枚は描いて、100歳までやるつもりで居る。< /div>


 出来ないことをやる。24式の太極拳も目をつぶってやっている。もちろん出来ないでよたよたする。時には動いている方向も分からなくなり、とんでもなくムキに成っていることすらある。それでもいつか出来るだろうと考えて、出来ないなりに進めている。

 動禅の終わりから2番目の動きに「片足立ち金魚運動」という動きをやっている。両手を頭の上で組み、片足立ちをして片足は前に上げる。そのまま静かに金魚運動を220回行う。足を変えて又20回。合計80回。これができない。たまに出来る日もあるが、ほとんど5回ぐらいである。出来ない動きがあることは、重要なことだ。

 1年ほどこんな具合で進めてきたら、何とか全体を目を閉じたまま、それなりによたよたしながらやれるようになった。パラリンピックに太極拳があれば、視覚障害者部門の練習のようだろう。しかし、目を閉じた動禅体操は内容は以前より深くなった気がしている。実は絵を描くときの心境が、近い物になってきた。良い絵を描こうという意識が少し薄らいできた。

 呼吸も意識せずとも動きに応じて少し一定に進化している。やれば出来る物だと思う。動禅体操を毎朝するようになったのは石垣島に来てからである。つまりそろそろ3年目と言うことになる。すぐ忘れてしまうのだが、ブログを調べれば、そういうことは分かる。

 覚えるのに1年はかかっただろう。もちろん眼を空いたままやっていた。2年目は太極拳を自分なりに動禅体操に変化させた。3年目は目を閉じたままやるようにした。今でも今日は一通り、やり抜くことができるだろうかと言うぐらい、自信なく頑張ってやっている。

 すぐに止めになりそうだ。やりたくてやっていると言うことでも無い。修行のつもりで、努力しているという感じだ。目を閉じてやるようになり1年が経ち、動禅の意味をすこしづつ感じ始めているらしい。進んでいる感じがするので、もう一息である。これは頭がぼけてきて、若い頃のように、雑念が湧かないせいかもしれない。

 全体の中に、立禅と仰臥禅を入れているのだが、静かにすべてを受け入れられるような気持ちでやれるようになった。空手の型はすごかった。是非、喜友名亮選手の演舞を拝見したいと思っている。動禅は採点競技ではないので、何点かは分からないが、すこしづつ深まっているので良いかと思う。

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