立花隆という知の時代が終わった。
ダンドクという花だと教わりました。南米原産でカンナの原種と言うことでした。江戸時代初期に渡来した植物。
立花隆は知の巨人と言われた。広い好奇心にしたがってあらゆる分野に知の探検に出向いた。田中角栄研究は政治に科学的調査報道でメスを入れた実に本質的な研究だったと思う。日本の調査報道を確立した人と言えるのではないだろうか。田中金脈をつぶさに調査し暴き、そして日本の政治の本質に迫った。
日本列島改造論というコンピュター付きブルドザーと言われた角栄の裏の世界を浮かび上がらせた。庶民であった田中角栄氏がどうやって明治維新以来の日本の権力構造を打ち破ったのか、その類い希な集金力と人脈の形成。そして人心を把握の力。
そして、田中角栄がさり、安倍晋三の登場なのだと思う。「安倍晋三の鵺の正体」というような研究が本来であれば必要なときなのだ。明治以降日本に横たわる既得権益を守る権力の最後のあがき。田中角栄が打ち破りかけて、最後にはその権力に潰された姿。
しかし、日本が何故後進国になったかと言えば、安倍晋三の長期政権を日本人が選択した自業自得である。アベ時代とは明治日本帝国回顧政権だったのだろう。明治軍国主義の復活など出来るわけもないし、日本の歴史で過去最悪の時代である。
立花隆氏は田中角栄研究以降政治研究を離れたように見えていた。田中角栄の悪行を暴き、その権力を崩壊したところで、日本の政治はさらに悪くなると言う現実に嫌気がさしたのでは無いだろうか。科学的探究の意味が政治には無いと言うことなのかもしれない。
立花氏はその後農協の問題に取り組む。このことについて、10年以上前にブログに書いた。今再読してみたが、今もその読み方は間違っていなかったと思う。つまり、田中角栄研究が政治の分析ではあるが、日本の政治の未来を提案していないというところである。
何のための調査報道なのかと言うことになる。農協を研究するのであれば、日本の農業をよくするためで無ければならない。農業がこの国にとってどういう意味があり、それに対して農協の役割はどこにあるのか。農業の未来展望を踏まえていない研究では、現実を変えることには役に立たない。
農業者の利益を守るために結成された農協のはずが、権力と癒着し農業者をむしばむことになる構造的な問題。それは70前に始まったことであり、立花隆氏が農協問題に立ち向かったのは40年前のこと。すでにその問題点は指摘されている。
そして、何も変わることが出来ずに本来の農業者の協同組合であるはずの農協が、その意味をほとんど失っている。農協の購買部は農業者にとっては定価販売の高い店に過ぎない。日本各地のホームセンターが行うような経営努力はどこでもなされていない。
小田原では農業の技術指導はほぼ行われては居ない。石垣島ではJAが石垣牛のブランド化に熱心だし、サトウキビヤやライスセンターなど、活動は豊富なようだ。これについてはまだ実態はよく分からない。小田原では農家のアパート経営や保険業務には熱心な営業がなされている。
農協が生まれるときに描いた、農業者が製品化の手段を持つことの意味が、今やほとんど失われているのではないか。北海道で生まれた、農協経営の先端設備の砂糖工場の意味は今どう考えれば良いのだろう。国際競争力の無い農業の代表例になるのだろう。
現在の補助金に支えられながらも、経営の限界に達している、沖縄県の砂糖生産。沖縄の農業のためには重要な作物ではあるが、展望という意味ではかなり厳しいものが想像される。現在過去に無いほどの黒砂糖の在庫がたまっている。
石垣島でも農業の業態が大きく変わり、畜産と果樹に移行し始めている。この流れは今後さらに進んで行くに違いない。実際に畜産や果樹の農家の方は若い方々である。そしてサトウキビや稲作は高齢者を多くお見かけする。
立花氏が農協をテーマにするのであれば、40年前に今のこうした日本の農業を予測し、そのためのあるべき農協の姿を提案すべきだったのだ。少なくとも私には40年前には日本の農業から、日本の若者が消えて行く今の姿が見えていた。
農業として成立は出来なくなるだろうと感じていた。私が特別に先見の明があったのではなく、農家であれば大半の人が自分の家族を後継者としては考えていなかった。展望が見えない職業だと考えていたからだろう。そして農業者の老齢化、廃業が進むと分かっていた。
立花氏は日本に農業が必要だと考えるから、農協をテーマにしたので無ければならない。そして、どのようにすれば日本の農業が成立するかを提案しなければならなかったはずだ。ところがそうした未来志向が実はほとんど無い分析である。
田中角栄研究でも日本の政治の分析は徹底しているが、権力をどのように変えて行くべきなのかの視点に欠けている。そのために田中角栄は居なくなったのだが、安倍晋三が登場してしまう。つまりさらに悪くなるばかりなのだ。
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立花氏が農業に対してわずかに展望を書いているのは農業者が後三割減少しなければ成り立たないと書いている。ところが、三割減どころか、三割になってしまった。そして、農業企業が登場して、日本はプランテーション農業に変わろうとしている。
何のための調査報道かを考える必要がある。確かに立花氏の着眼点はその時代時代を象徴する問題に取り掛かっている。今で言えば週刊文春である。文春の記者時代もある。もう少し長生きすれば、感染症問題に取り組んでくれたのかもしれない。
ブログも批判ばかりでは無く、何のために書くのかという原点はいつも考える必要がある。どのような幼稚な展望であれ、どう解決できるのかという視点が示せないのであれば、書くべきでは無いと自戒しなければならない。