オリンピックはせめて無観客開催で

   



 オリンピックに突き進んでいる。戻るという選択の無い日本の政府。安心安全なオリンピックとはとうてい言えない状況だろう。菅政権にとってやらないという選択は初めから無かったようだ。オリンピックを開催するという、命題に向かって強行の方法だけを考えている。

 その背景にあるものは、経済的損出。菅政権の命運。一度決めたことから撤退する勇気のなさ。哀れなことであるが、人ごとではない。選手のことを思ってなんとしても開催するのであれば、せめて無観客である。開会式はいらない。聖火リレーもいらない。

 何故この当たり前のことが分からないのかと、我々の政府だと思うと情けなくなる。国民の気持ちはオリンピックは開催して欲しいとは思っている。人間を越えたような努力してきた選手への応援の気持ちは誰にでもある。それでも安心安全では無いと予測できる以上止むえず中止を言う人が多くなっている。

 それでも世界から何十万人の選手団とその関係者が来ることになる。競技中に感染が起こらないとは限らない。すでにウガンダから来た選手からはコロナ感染者が出ている。ワクチンを打っているし、PCR検査もしてきたという。それでも感染者は出る。一緒に居た他の選手はそのまま移動している。あれでいいのだろうか。

 ウガンダから来た他の関係者にも感染が起きている可能性もある。こうした事例は今後もあるだろう。しかも、それが何千人の単位でで起こることになる。収拾が付かなくなり、オリンピックの途中中止すらあり得る。もし、開会式で2万人の観客の中でこれが起これば、その後の競技どころでなくオリンピックは終わりになる。

 すべてを用意はしたとは思う。多くの人が関わっているのだろう。それでも今引き返すのが政治の勇気である。それが出来ない理由は政府の方が、オリンピックにしがみついてしまったからだ。オリンピックを開催すると言うことに国の命運を賭けてしまっているのだ。神風に期待するようでは相変わらずの日本だ。

 無謀な戦いを続ける。誰もが第二次世界大戦の敗戦時を想像するのではないだろうか。本土決戦などと、何の展望も無いにもかかわらず、止めることが出来なかった。敗戦を認める勇気は難しい。ここまで来てオリンピックを中止するのは大変だと思う。日本はコロナとの戦いに敗れたのだ。止めても政府を攻めるものは居ない。

 第二次世界大戦では、日本の軍部には世界の状況が見えていなかった。コロナの戦いでも感染症の状況が見えていなかった。備えもなかったし、知識もいかにも不十分だった。今回のコロナ戦争では、あのクルーズ船以来すべてがゴテゴテである。PCR検査が遅れた事は理由すら分からない。ワクチン接種はさらに遅れに遅れた日本になってしまった。

 コロナより経済が大事と経済に引きづられて、中途半端な対策の繰返しをしたことが事を悪い方に広げてしまったのだ。オリンピック開催も同じだ。あのとき、冷静に二年延期を選部事ができれば、ワクチンが間に合った。

 自分の弱いところを認識するのは辛いことである。なんやかや言い訳の理由を探す。しかし、もう言い訳の出来るような状況では無いだろう。たまたま、日本人にはコロナに感染しにくい、重症化しにくい、コロナウイルスへの特別な反応だけが救いだった。それもインド株になれば、通用しないようだ。

 インド株が広がってきている。オリンピックは今からでも中止すべきだと思う。それが国を思う本当の気持ちではないか。しかし、政府にはその勇気が無い。だから中止の決断など出来ない。そして備えの十分でないまま、突き進むだろう。後は幸運にも大きな感染が起きな位かもしれないという、神風だけのことになる。

 全くの無謀な選択である。今唯一の希望は無観客である。せめてもの無観客である。政府は選手とその関係者の安全確保に全力を注ぐ。そのためにも観客どころではない。観客対応に力を削がれれば、選手から感染が起こるリスクが高まる。

 これは最後の願いである。無観客でお願いしたい。それが感染症学者の科学者の意見でもある。自由研究では無いのだ。政府に国民の命を預かる気持ちがあるなら、無観客である。その結果入場料収入が無くなり、損害が出るだろう。色々つじつまが合わなくも成る。

 そもそも、コロナ緊急事態下にどうしても開催するオリンピックである。観客なしのオリンピックという、おかしなことになるのは仕方がないことだ。人が動くことを抑えようと主張してきた感染症対策であったはずだ。今決断すればまだ間に合う。

 開会式を無観客でやる。入場する選手はいらない。各国関係者が一名参加するだけで良い。盛り上がらない開会式になるだろう。しかし、それが世界でのコロナ感染死亡者: 3,859,605人 への鎮魂である。どうしてもやる以上、コロナ鎮魂のオリンピックとして開催する。

 コロナに打ち勝ったオリンピックなどと良くも言えたものだ。政府はコロナの深刻さが認識できないままここまで来てしまった。政府の姿の中に、日本人の現実を直視できない姿を見る。希望的観測が政策判断を支配してしまう。非常事態宣言もいつも甘い判断で終わりになった。

 最悪の事態を想定するのが、国の安全保障の原則である。大丈夫だろうではすまないのだ。万が一を考えるのが基本である。そしてその万が一の確立をさらに低くしていくのが、政治の役割である。少々の不安があるが、やってみれば案外大丈夫だろう。これでは目に見えて、大きな事故に繋がる考え方なのだ。


 天気はだんだん良くなるに違いない。雷は落ちないだろう。津波は来ないはずだ。台風は上陸前にそれそうだ。これではいつか最悪の事態に遭遇する。政治は絶対に安全な上にも安全を期すのが役割である。本来ならば、ここでオリンピック中止を決断するのが人の道だ。

 それでももう出来ないようだ。出来ない以上、仕方がない。せめて無観客にすべきだ。世界中の人に中継で見て貰えば良いだろう。そもそも世界中の大多数の人はテレビ観戦である。テレビ中継を充実させればいい。インターネット中継も出来るだろう。IT時代のオリンピックとしてアピールすれば良いでは無いか。

 最後の願いである。届かないだろうが、今無観客を決断すれば、菅政権の勇気は後世に残るはずだ。人の命以上に大切な物はない。生きていれば何とかなる。死んでしまえばすべては終わりだ。オリンピック開催のために犠牲になって良い命など一つも無い。世界の選手のために、どうしてもやりたいのであれば、無観客以外にないだろう。
 

 - Peace Cafe