動禅を行う理由

   



 動禅は身体が覚えると言うことだと思っている。人が何かを理解すると言うためには頭で理解しただけでは、まだ十分な理解ではない。身体でまで理解が浸透するためには、行動をして身につけなければ完全な物にはならない。そこで動禅を繰返し行うことで完全な理解にすると言うことになる。

 分かりにくい説明なので、具体的なことに置き換えてみる。動禅の一つに歩く禅というものを行っている。ただ歩くと言うことを繰り返している内に、歩いているときの心境が3ヶ月ぐらいすると変わる。3ヶ月繰り返す内に歩くことを身体が覚えたことになる。

 それに気付いたのは、上り坂を歩くときであった。ウラント農道と言うところの一番上で絵を描いている。その場所から歩いて道を下り、又道を上る。絵を描いていて一段落したときに、これを行うようにした。気分転換のためである。

 これを繰り返している内に、降りているときと登っているときではまるで心境が違うことに気付いた。最初の内は良く意味が分からなかった。くだっているときは楽だから、余裕があり今まで描いていた絵のことなど考えて歩いていた。

 周囲の天国のような風景を味わっていた。鼻歌気分である。ところが登りとなると、一転して苦しい。苦しい中で分かったことは何も考えられないと言うことである。ただ必死に呼吸をして、足を動かしている。そうして、下り、8分登り、16分ぐらいを繰り返していた。最初はただそれだけである。

 このおおよそ1キロの上り下りを繰り返していて、あるとき身体が覚えた物があったのだ。登り道の苦しい中での無念無想である。歩くことの苦しさ以外に何もないぐらいの速度で歩く。慣れると上り坂とは言えだんだん早くなった。そのギリギリのところで歩くと、苦しくて考えることが出来ない。

 この考えることの出来ない状態の16分の感覚を身体が覚えたのだ。このただ呼吸をしているだけの状態で動禅を行う。苦しくない動禅であっても気持ちを集中して行うことがだんだん出来るようになった。スワイショウで身体を回転しているとき別段、苦しいわけではないが、ただ呼吸をしている心境で行えるようになった。

 それは太極拳24式を行うときでも同じである。他のことは考えずにただただ動きという物だけに気持ちを集中して行く。それが出来るようにだんだん成ってきたのは、登り道の歩く動禅を体得したからである。動禅で一番大切な、動きそのものになりきることができることだ。

 実は絵を描くと言うこともまるで同じである。絵を描くのは右腕である。当然頭も使って要るに違いない。ところが、どうも頭で描いている感覚はない。腕が描いているという意識である。頭ではあそこをこの色を描こうとしているのに、腕は違うことをしていると言うことはままある。

 画面の上に筆を下ろそうとして、違うところを塗り始める。そうなると、全く腕が自動描機のように、勝手に動き回っている。頭で止めると言うようには思わない。そういうときは腕に任せられるだけ任せてやって貰う。

 たぶんそ言う体験をしている絵描きは他にもいるのだと思う。少なくとも禅画を描く人はそうなのだろうかと思う。この意味をよく考えてみる必要がある。何十年もこうして頭で考え、腕が動いて絵を描いていると思ってきた。ところが頭で理解したというようなこととは違う、腕が覚えたことが沢山あるのだと思う。

 手の指の筋肉の動きを研究した日本人がいる。手の筋肉は28の筋肉で調整されているのだそうだ。この一つずつの筋肉の動きの強弱を加えて、人は指の絶妙な動きをコントロールできている。ピアニストの絶妙な演奏など、スーパーコンピューターでも制御できない物だそうだ。

 それが何故可能になるかは頭で動きを制御しているのではなく、脊髄からの指示で指が動いているのだそうだ。ピアニストは無意識の中、指はまるで自動的であるかのように動く。音楽に入り込み、ただその音を最善なものにしようと指が反応しているのだろう。

 これに極めて近い状態で絵を描いている。絵を描く反応を頭でしているのでは無く、腕が行っている。これがよく分かるのは書を書けば分かる。書を書いていると、自分の名前すら下書きがなければ点が出るのかでないのかさえ分からなくなる。

 文字を理解している能が、働いていないのだ。ただ、描く脳が働き、腕に反応を任せている。腕の良い動きだけに委ねている。そうでなければ書を描く、絶妙な筆さばきはできない。描きながら、脳にまで戻らない素早い反応で次の運筆を探っている。

 水彩画も極めてそれに近いことになる。描いているときは描く機械になってしまうから、技術だけの絵になりがちなのだ。いつものあの描き方で反応しますと、プログラミングすると、空を描く機械になり、花を描く機械になる。

 そうしたシステムで描くような水彩画を見ることがある。無理も無いところがあるのだ。そうしたつまらない技術だけの絵にならないためには、見ると言うことの重要性を考える必要がある。描く物をどれまで深く見れるかである。描いている絵の意味をどれだけ考えられるかである。

 言い換えれば、描くときの内心の無念無想の奥底にある自己世界の哲学の重要性と言うことになる。動禅は自分の無意識に向かう練習に成る。無意識と言うことは自己哲学が幼稚であれば、幼稚そのものの絵になる。

 自分という物を常に向上させ、より深い哲学と、豊かな世界観を持たなければ、当然絵は描けないことになる。よくよく自分の絵と対峙することである。この絵なら自分の絵と言えるのかを問うことである。描くことはその一瞬のことであるが、対峙し見ている時間は長く、深い。身体が覚え込むまで繰り返すことは何事にも必要である。

 筋肉が自覚するためには3ヶ月がかかるという。体操をして、筋肉が増えるためには、今のままの筋肉では足りないと言うことを筋肉に気付かせるためには3ヶ月かかるというのだ。人によっては半年かかることだろう。しかし、身体が覚えたことはなかなか抜ける物ではない。筋肉に覚え込ますことはなかなか大変である。

 身体が覚えた動禅の心境で絵を描く。これである。私の場合は風景を見て何を感じるかである。風景の本質本質とは、ふるさとを離れて何十年も経過した人が、記憶として思い出すような風景のことに近いと思っている。ただの青空であるかもしれないし、水に映った雲かもしれない。

 絵を描くことも動禅と大差ないものに成る。見ている世界を、絵として画面に再構築する。まあ、人から見たら何をやっているのかというようなおかしなことではあるが、この心境がどこまで進むことが出来るか。もうしばらく続けて見たいと考えている。
 

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