民主主義の次の時代

   



 民主主義が失われ始めている。世界では民主主義国家の方が少なくなったと言われている。日本でもこれが民主主義国家かというような事が繰り返されている。たぶん、民主主義では経済競争に不利と考えるからではないかと思う。人間の権利よりも、国の経済がそれどころではないと考えるようになっている。企業が民主主義で次の商品を決めていれば、天才にお任せの企業に勝てないと言うことのような物かもしれない。

 競争主義がより厳しくなり、民主主義ではまだろっこしい。経済優先ではこういうことなのだろう。こうした上っ面の世界では、確かにその通りかもしれない。「小田原評定、久野寄り合い」判断に時間をかけた決断では、現代の早いうまい安いの商品世界にはついて行けないという現実である。

 しかし、ゆっくりで、滋味のある味がして、それなりの値段の食べ物が人間のからだには良いはずである。ファーストフードではなく、スローフードと言われている。人間を形成する食べ物の意味をよく考えれば、売れれば良いと言うことだけでは良いはずがない。経済格差がファーストフードを広げている。高い物が良いとしても売れないから、粗悪品が競争に勝利している。

 商品経済はまさに民主主義の劣化を表している。民主義にはやせがまんがひつようなのだ。売れる商品が多数決の良い見本のようなものである。安物が選ばれざる得ない社会。しかし、よく考えれば売れているから良い商品ととうてい言えない現実がある。売れるくだらない物のために、大切な物が失われている。

 良い事例が、手織りの布である。これほど素晴らしい布は日本以外にはないと思うほど素晴らしい布がある。沖縄の布もすばらしい。何しろ中国に流れ着いた沖縄の漁師の着ている服をみて、こんな布を着ている漁師がいるとはどれほどの文化の国がこの海の向こうにあるのかもしれないと、都に報告書が届けられた記録がある。

 一つの着物を作る為の布が何ヶ月もかかる。最低賃金で計算しても、100万円以上になる。だから売れない。どれほど良いものであるとしても、売れない商品は消えて行く。竹のざるの方が、プラステックのざるより美しいし、環境にも良い。しかし、100倍の価格では消えて行く。

 これが競争主義の現実である。それは商品だけで起きているわけではない。あらゆる分野に、文化にさえ及んでいる。文化自体が競争主義に巻き込まれて、衰退し、変質し、奇妙な物になり始めている。そのこと自体が余り問題にされることもなく、お金になる文化だけが生き残っている。コンピューターゲーム文化などまさにその代表である。

 それはまだ良いとしても、残さなければならないような崇高な文化がいつの間にか消えて行く。もうその素晴らしさを認識する人すら減っているから、消えたところで誰も悲しむこともないし、喪失感もない。これが文化としての民主主義の実情だろう。

 農業の分野では大規模機械農業が、伝統的農業を消し去ろうとしている。当たり前のことだろう。見た目では似たような大根が、300円と100円なのだ。栄養価も味も我慢できる範囲であれば、100円の方を誰だってえらぶ。

 プランテーション農業が、伝統農業を破壊し消し去ってきた。農業国でありながら、飢餓に苦しむ国がある。日本でも農業は国際競争力がなければならないとされている。そして、伝統農業が失われつつある。人間が人間らしく幸せに暮らすという原点が、すでに失われかかっている。

 その結果どれほどひどいことが起きているのか。農村の崩壊である。中山間地の村落の消滅である。競争力のないものなら、消えれば良いと言うことなのだろう。浅ましいことである。ふるさとはどこに行ったのだろうと思う人はまだ居る。しかしそうした年代の人も遠からずいなくなる。

 どうすれば良いのかである。資本主義経済と距離を置いて暮らすほかないといまでは考えている。自分の生活から変えて行くほかない。自分の着るきものであれば、自分の子供に着せるきものであれば、手織りの着物も作れるのかもしれない。自分の食べるものであれば、伝統農業で作れるのかもしれない。

 幸いというか、不幸にも日本は人口が減少し、中山間地は村落自体が消滅を始めている。離島ではさらに深刻である。中山間地の消滅地域に資本主義経済とは距離を置いて暮らす生き方である。社会全体を変えると言うことはもう不可能と考えるほか無いのだから、仕方がない。

 ユートピア的発想かもしれないが、競争主義に巻き込まれて生きるよりは人間らしく生きることが可能なのではないか。食べるものさえ確保できれば、ある意味何とかなる時代でもある。シャベルだけで自給自足を実現した、私が言うのだから、間違っているとは思わない。

 都市集中はコロナで問題とされても、結局は都市集中は続くはずだ。その方が当面の競争には有利だからである。商品経済の原理から言って、集中は効率を上げる。津波が危ないところに相変わらず人間は暮らしている。日々の暮らしの便利さは捨てられない。

 東北の過疎化と地方都市集中は今後も続く。政府は皇室の京都移転すら出来ない。発案すらない。政治タブーの一つなのだろう。民主主義では経済競争に負けるとな
れば、民主主義は暫時縮小されて行くに違いない。社会から距離を置いて暮らす道を模索するほかない。

 人間は共同するならば、一日1時間の労働と100坪の土地があれば、食糧の自給が出来る。もし一人であれば、2時間の労働である。これは私が39歳から65歳まで実践し、確認したことである。一切機械力は使わず、開墾から始めた結論である。

 民主主義的生活を志す仲間の中で民主主義は再生するのではなかろうか。一人一人を大切にする考え方は、思いやる心がなければ成り立たない。トランプも習近平も人のことなどかまちゃられないと、明言している。他人は利用できるか出来ないかしかない。

 民主主義の次の時代は無視政府主義時代である。次の社会の方角は企業主義時代なのだろう。やりきれない社会とは距離を置いて、社会と言うか、世間を無視して自分の生き方を通す以外にないと思っている。社会全体という物を諦める以外にない気がしている。残念なことだがもう全体は期待できない物と見えている。

 だからこそ、自分たちだけでも互いを尊重出来る能力主義ではない社会を作る必要があるのではないだろうか。そのためには自給の田んぼを行う。そしてその中で自分の内心を、人のためを考えることの出来る人間に強化して行く。自給の田んぼの体験は身体がそういうことを覚えるための物でもある。

 

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