納豆がイチゴに負けてどうする。

   


 無意味な比較の話である。比べてもどうにもならないものを比べたがるのが、人間である。誰が一番美人かというようなランキングも後を絶たない。納豆はご飯のおかずであり、イチゴはデザートである。比べようもないものだ。

 「納豆がイチゴに負けてどうする。」この言葉は忘れられない言葉だ。言葉に力がある。これが今の時代なのではないかと思った。これは茨城県に栃木県が負けてどうする。と言う言い草であれば、別段何も残らない。納豆とイチゴに競争をお任せしたところで、一気に記憶に残った。
 比べようもないものを比べて、幸せ度を測る。人間が生きるというのはひとりのことで、そもそも比べても始まらない。他人から見ればどれだけ不幸であろうが、本人が幸せならば、他人が口を出すようなことでは無い。

 栃木県知事選で候補者たちが、栃木県の魅力度ランキング最下位を倍返ししてやると、アピールしたらしい。魅力度ランキングをやるなら上位10位だけで良いだろう。最下位を話題にして面白がるようなことは虐めと同じような体質では無いか。下品極まりない。

 しかし、上位争いよりも、最下位争いこそ話題性があり面白がられるのだろう。人間というのはそのような情けない本性なのだから仕方がない。ここで両県が争っているのは東京都との比較では無いだろうか。何も無い田舎だから魅力がないと言う身も蓋もない話。

 歌舞伎町も原宿も無いから、魅力が乏しいという感覚はくだらないだろう。イチゴも納豆も無い東京の方が、つまらないのは当たり前だ。暮らしというものを分かっちゃ無い。人間には石垣島が良いという人もいれば、歌舞伎町で無ければ夜も明けないという人もいる。

 そもそも茨城県も栃木県もすばらしい地域では無いか。それを魅力が無いなどと判定するのは感性が鈍いからだろう。人間が多様であるように、地域も多様である。何を魅力的とするかは人によって違う。都会が良いという人もいれば、田舎が好きだという人もいる。

 田舎と都会という比較がそもそも世間では論外なのだろう。田舎より都会が良いから、田舎が人口減少が起きているわけだ。多数決ならば、もう結論が出ていると言うことに成る。民主主義だから少数意見も尊重して貰うという範囲で、田舎が好きという人も居ていいと言うことになっている。

 もう一度イソップの「田舎のねづみと都会のネヅミの話」を思い出す必要がある。都会は甘い誘惑がいくらでもあるが、危険に満ちているというギリシャ時代の寓話なのだ。歌舞伎町のコロナクラスターを体験した我々には身に染みて分かる話だ。

  そもそも納豆とイチゴは比較が出来ない。納豆も好き出し健康にも良い。イチゴが果物で一番好きだという人も結構いる。私はマンゴーが良いが、もちろん万合とイチゴを比較すべきでは無い。納豆には納豆の良さがあり、イチゴにはイチゴの魅力がある。こういう出来ない比較をするのが、〇〇ランキングなのだ。

 こうしたランキング方式は注目を集める為の仕組みだ。俳優の好感度ランキングがある。自分の好きな俳優さんが世間ではどういう評価なのかというような興味。人間の好奇心を掘り起こすと言うことが、今どこでも行われている。

 これはまだましで、嫌われているタレントの順位の方がかえって注目度が上がる。注目されれば何でも言い訳で、嫌われ一位は人気者の証拠だと言うことに成る。だから、わざと嫌われようという炎上で、注目度を上げるというようなことを繰り返さなければ居られないタレントまで現われる。

 インターネットではユーチューバーとか#ハシュタグがどうのこうのと注目度が上がることが、収入に繋がるというシステムがあるらしい。そこの記事も多くの人が読んでくれると、そこのCM収入が上がるようなシステムがあるらしい。そこで人目を引くような下劣なことがまき散らされる結果に成る。

 何が気を引くだろうかと鵜の目鷹の目で探している社会は、ろくでもない社会だ。インターネットは人間の抑制のたがを外した。テレビは総白痴化したのかもしれないが、インターネットは人間を総犯罪者にしたのだろう。もちろん、テレビにも良い面があったように、インターネットにも良い面がある。

 個人が発信力を持ったと言うことだ。例えば、テレビタレントがテレビを干されて、自分でユーチューバーとしてやって行くという人がいるらしい。みんなとはやれないという人もいる。そういう人も自分で〇〇テレビという形で発信して、誰の世話にならずに成立する。

 お笑いタレントには有能な人が多いが、ユーチューブからテレビに表われるという人もいる。もちろん、ユーチューブの中から出てこないでそちらで、勝手にやっている方が良いという人もいるのだろう。音楽ではまさにそういう人がいくらでもいる。

 音楽には国境が無いと言うが、それこそ世界中の音楽を聞くことが出来る。無名なのか有名なのかは分からないが、心を揺さぶられるようなチャドを聞いた。コロナで収入が絶たれたと言って弱音を吐いている音楽家がいるが、何故インターネットで表現しないのだろうか。

 誰も劇場に行けないとすれば、等しくチャンスが回ってきたわけだ。本当の力があるなら、そこで表現をすることが出来るでは無いか。ネットの中で音楽を探している人はいくらでもいる。表現者としての音楽家であれば、まず表現をするところからだろう。そこで評価されれば必ず生きて行く道は開ける。

 そうした道がすべての人に開かれているのが、インターネットの世界である。この平等性こそが、インターネットの良さである。だから、ブログを書き続けている。全くその辺の普通の人間が表現手段を持たせてもらえたありがたさである。普通の人間だからこそ、インターネット時代に書き続けてどうなるかを見てみたいと思っている。

 絵を載せているのも同じことである。世界中の誰かが見てくれる可能性がある。無意味なことかもしれないが、私が死んだとしてもネット上に私の絵は残ることは可能だろう。もし私の絵がちゃんとしたものであれば、誰かに伝わるはずだ。

 嫌、そんな。私の絵が大それたものと言っているのでは無い。絵を描くときの姿勢のことを考えている。生涯水彩画を描いて、一切発表をせず、死んだ会津の牧師さんが居る。それを見つけたゆうじん画廊の和田さんが遺作展を開いたことがある。どう考えて絵を描いたのだろうかと、一枚絵を買った。

 路上生活者が夜中にたき火を囲んで暖を取っている繪である。隠れて絵を描いていたので、夜の絵しかないのだ。この人が発表をしながら絵を描いていたらどうだったかと言うことを思う。もう少し絵が違っていたに違いない。名前なしで、インターネットに出していたら面白かった。絵を描く気持ちを変えていたはずだ。

 納豆とイチゴの話だった。これを口にした田辺氏は栃木知事選挙で落選した。炎上が逆効果になったと言うこともあるかもしれない。だから、パイナップルが納豆に勝つ話なら、石垣島の勝つ話になる。私はその方が今はいい。

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