水彩画の描き方
パフィオ・ベナスタムアルバが咲いた。
水彩画の描き方で、重要な方法を最近やっと分かった。描く前に、このように描いた後どんな画面になるかを明確に想像することである。そしてその結果を記憶して行くことである。これを積み重ねて行くことの重要性を知った。
当たり前のことのようだが、これが案外に出来ていなかった。技法は固定しないようにしてきた。いままでやったこともないようなやり方を試みるようにしている。水彩画は下手をすると一つの狭い技法に入り込みやすいからだ。
水彩画は表現が多様である。研究的に制作を続けてきたつもりだが、未だに新しい表現にであうことが日々ある。驚くべき可能性を秘めた技法だと思う。自由自在に水彩描法を駆使できるようにしたいと考えてきた。ただ感性に任せているだけでは、表現の幅はむしろ狭くなって同じやり方だけで書くようになる。
水彩画描法の内の5%程度の幅のなかで描くのが普通の水彩作家なのだと思う。浅井忠、中西利雄、いわさきちひろ、安野光雅、クレー、ターナー、オキーフ、ノルデ、モランディー、ラウル・デュフィー、誰の絵を思い出してみても、水彩技法の狭いところで絵を描いている。
それをダメだと言っているわけではないつもりだ。一つの手法を確立して、その表現法で自分の世界を描く、日本ではむしろ自分の作風を確立することは奨励されている在り方だと思う。評価されたら同じ描き方で繰返し描くことが指導されている。
しかし、水彩画を描いていると日々新しい表現にであう。面白くてもっと多様な表現が出来るはずだと思わずには居られない。ボナールの水彩画の中には水彩画家よりも多様な手法を用いているものがあって、魅入られてしまった。油彩画と思って最初は見ていた作品さえある。絵の具の厚さだと見えていたものが、実は筆のかすれであった。
やろうと思えば、水彩絵の具の色の美しさを生かして、今までにはないような絵画が描けるのではないかと感じることが良くあるのだ。そう思うと、わくわくしてくるし、自分の制作の先が見えてくるような気さえしてくる。
想像している水彩画はいままで世界のどこにも存在していないと思う。水彩絵の具の透明色の重色。紙の調子を生かした水墨的表現。一番近いものは中川一政の岩絵の具を使った作品が、方向を示しているのではないかと考えている。遙か彼方であることがよく分かる。
水彩画の描き方を広げて行く上で最も重要なことは、こんな色を、この濃度で、この筆で、描いた場合、どんな状態になるかを的確に想像できることである。水彩画は一方向の描き方である。どんどん進みながら描く方法である。前に描いてあるものを生かして描いて行く。
そのために手法を絞らないと、複雑化していく。そのために作家の多くは自分の表現方法を固めて、その中で制作をするのだろう。方法が複雑化してしまえば、自分の表現法の確立ができないと言うことになるために、狭い範囲の水彩表現に絞り込むことになる。
そのために、せっかく水彩画には油絵以上の多様な表現が出来る材料であるにもかかわらず、スケッチ材料程度の利用しかされないことが多い。たとえ中川一政であったとしても、水彩に専念しない限り、水彩画を大成させることは出来なかったであろう。だから岩彩なのだと思う。すばらしい材料である水彩画がいつまでも表現方法が狭いままにされている。
水彩画はあらゆる表現が可能だという前提で、描法を見直してみたいと考えている。あらゆる場面で一つの描法に依存せず、あらゆる描法を試しながら、自分の世界観に迫る必要がある。そうしないと、水彩画は実に狭い領域のものに陥る危険と背中合わせなのだ。
どこにでも進んで行く覚悟で絵に向かうときに、次にやることは始めてやることになる場合が多くなる。そこで、どうなるかを推測する能力が高くなければならない。やってみたことはないが、たぶんこうなるであろうということを、構想しながら制作をする。
そのために、おかしくなることも多々あるし、思ってもみなかった結果に成ることも多い。できるだけ多くの方法を経験して、あらゆる技法に対応して、この先どうするかを決めて行かなければならない。その道はいつか通った道ではなく、半分位は初めての道である。
そのために、これからやろうとすることがどういう結果になるであろうかの想像力を高めることが必要になる。水彩画は取り返しが付かない。やってみてだめならば、もう一度やればいいと言うことはない。それでもダメにする覚悟で思いついたことはやり続けなければならない。そうしなければ新しい方法は発見できない。
常に希望を見いだして、拾い出して行く。そして新しい方法に踏み込む。これが出来なければ、水彩画はすぐに狭い表現に落ち込む。その狭い技法が魅力的なだけに、そこに止まることになる。だから、水彩画の世界観は小さなものになりがちなのだろう。
出来るのか、出来ないのかは分からないが、水彩画の総合的な表現方法で描きたいと思う。岩絵の具の強い色彩と水彩絵の具の美しくい透明性の融合した絵画を作り上げたい。水彩絵の具の色彩の微妙さはどの材料よりも優れていると思う。
ファブリアーノの一番厚い水彩紙を使う理由はここにある。強い色彩表現が可能だ。しかも繊細で微妙な色調も出せるという、両極の表現を持っている。インドの水彩紙であれば、強い表現が可能である。ワットマンの水彩紙であれば、繊細な表現は可能である。同時に表現が可能なのはファブリアーノの厚い紙だけだと思う。
最近もう一つ発見したことは紙を一度泣いた状態にして、色が乗りにくくしてから、重ね塗りをして行く方法である。思うところに進めるのは困難なところはあるのだが、他の方法では表現できない重厚な色調が出せる。と動じに柔らかな淡い色も可能になる。
この場合白を重ねて行くことで表現の幅を広げることが可能になる。紙が泣いていれば、白を上から重ねたとしても、乾けば下の色がかなり表われてくる。その上に又着色することで、新しい色の表現になる。もちろん白以外の色でも同じことが可能である。こうしてどんどん複雑さがまして行く。
これからやることで画面がどう変わるのか、頭の中に膨大な情報を蓄積して行かなければならない。やればやるほど、水彩画の奥行が増して行く。頭を整理して、記憶量を増やさなければならない。過去のことを消去して、記憶の空きをつくらなければ間に合わない。
北斎の言う一日一枚という意味が身に染みて分かる。描いても描いても新しい課題が出てくるばかりである。やればやるほど重要な問題が掘り起こされるようだ。ただ、これは進んでいると言うことでもなく、堂々巡りをしているようなものだ。
それでいいと思っている。前に進もうが後ろに行こうが、今自分がこの当たりが、問題らしいと言う当たりをどん底まで突き詰めて行く。進んでいるのでは確かにない。戻っているわけでもない。立ち尽くして同じ穴を掘っているような感覚である。
ほとんど何も考えずに、絵を描く機械のように、描いてはそこで起きたことを記憶している。そして又次に描いてみて確認している。新しいことが次々表われてくるもので、今のところとりとめがない。ただ、その絵では役立たないと言うことが分かれば、一つ分かったことが増えたと思ってやっている。