大村知事リコール、8割超が不正
愛知ビエンナーレの表現の不自由展を開催したことに対して、大村愛知県知事の公金支出を不正だとしてリコール活動が行われた。「高須クリニック」の高須克弥院長がリコール活動を主導して行い、河村名古屋市長が応援するという形だった。
名古屋市長が愛知県知事をリコール活動をすると言うこと自体が前代未聞であった。この二人は当初は協同していたが、途中から何かと仲違いしているようではあった。そもそも、河村市長の愛知ビエンナーレ展批判はすこし見当違いのものであった。
公共の美術館で、公共の費用で行われる展覧会において、その内容を制限することが出来るかどうかが問題の主題である。天皇批判は許せないと言うような問題ではなかったものを、あえて混同するようにごちゃ混ぜの議論にしようとしていたのだ。
知性不足で理解が出来なかったので混同したのあればまだ良いのだが、さすがにそうではなく、あえて天皇問題を持ち出せば、世論の支持を得られるだろうという、計算だったのではないかと思われる。全国のネトウヨが炎上していたのだ。あの炎上の様子で状況判断の計算を間違えたのだ。
リコールは当然署名は集まらなかった。集まらなかった上に調査した県の選挙管理委員会によると、約43万5000人分の署名のうち不正署名は約36万2千人分、83.2%が「有効とは認められない」と判断された。何というお粗末なことか。
有効署名が、7万3千人である。1.3%程度の署名と言うことになる。90人に1人くらいが右翼的な人か、河村市長のような人と言うことが分かったわけだ。当然の結果と見て良いのだろう。日本の極右勢力は1%ぐらいと考えればいいと言うことが見える。
その不正の実態はまだ分からないが、組織的な不正が行われたことは確かなようだ。新聞によると、主催事務局がアルバイトを雇い、名簿を渡して署名させたと言うことである。何故こんな馬鹿げたことを事務局が行ったのかが不明である。
名簿を同一人が写して署名していると見られる、筆跡が同じである。拇印が同じであるというものが連続している。不正を行った人が自ら表明して分かったことである。こんなずさんなことはどうせばれることである。名簿の確認が行われないとでも考えていたのだろうか。それもないだろう。
とすると、たぶん事務局には何らかの費用が払われていて、どんどん署名が集まっているという姿を見せることで、その費用をもっと引っ張り出せたのではないだろうか。もう一息です。運動費用として、後一〇〇〇万円お願いしますというようなことではないだろうか。
これならば後からばれても、金を払ってやらせたとは言うことも出来ない。美容整形でお金があるから、右翼の総会屋グループのような連中に狙われたのではないだろうか。そもそも、焚き付けた右翼グループが高須氏をうまく引き釣り混んだ可能性もある。
もう一つ考えられることは、余りに証明が集まらなかった結果である。7万3千人だけではみっともない。名古屋市長も恥ずかしい。せめて格好だけは付けようとした。リコール出来る数が集まらなかったが、そこそこは集まったという形を作ろうとした可能性である。
リコール数まで集まらなかったのだから、署名の中身の精査をしないかもしれないと考えた可能性がある。それでもこんな人数の人がリコールをしているという形は作れると考えた。確か署名の精査をするのはおかしいと河村氏は発言していたように記憶している。
恥の上塗り名古屋市長である。この関わり方のお粗末な様子はとうてい市長の器ではない。なぜ、こうして右翼が炎上キャンペーンをやるかである。様々な媒体が炎上に便乗して、もうけ仕事をしているのだ。
この背景にあるものは見過ごしてはならない闇があるようにも見える。今の社会に存在する右翼勢力の実態である。ネトウヨと呼ばれるネット上で誹謗中傷を繰り返す勢力がある。そして、杉田水脈氏が炎上パフォーマンスで注目を取ろうとするような勢力がある。
右翼を装う悪徳集団なのかもしれない。一儲けするために、右翼的炎上を利用しているのだろう。天皇が誹謗されていると言えば、これは一大事だと思う人はいるだろう。そこに便乗する商法である。
愛知ビエンナーレ展で、天皇に対する不敬が行われた。そんな展覧会に公金が出費されることはおかしいだろうという、右翼からの攻撃が盛んに行われた。そのことで開催が中断された。美術館での展示という意味を考えようという、表現の不自由展が、まさに美術の自由を奪われる形になったのだ。
今回の展覧会は筋違いも良い所だ。表現の自由とは何かを美樹幹において考えようという展覧会である。どんな内容のものがどういう形で展示が拒否されたのかが問われたのだ。どのようなものであるかを評価するのは美術の問題である。
美術館という器はある意味線の引かれた特別な場である。そこで表現される自由は、例えばテレビで放映して良いのかと言うような問題とは全く違うのだ。残虐な表現、性的な表現、なども見たくない人が見ないですむ配慮がされれば表現する自由はある。
美術の表現はどこまで自由であるかを問題にすることはとても意味のあることだ。こうした動きに対して、何でも屋って良いなら、在日朝鮮人に対する誹謗中傷を行い。表現の自由だという動きもあった。表現の自由とはどういうことなのか。美術館の中で大いに考えるべき問題である。
美術館の中という条件であれば、見たくない人が見ないですむ事前の準備、周知がなされているのであれば、一定の範囲を除けば表現は自由である。やって良いのはやはり法律の範囲内である。そこで殺人をパフォーマンスでやって良いとか。動物虐待をやって良いというわけではない。個人情報の公開や人権侵害なども当然許されない。
では天皇を批判する表現が許されるのかどうか。これは法律の範囲内のことであれば許されると考える。天皇の批判は天皇制という制度への批判や問題提起は、行われたとしても自由である。河村市長と、高須院長はこれを不敬罪であるとしてリコールを行おうとした。こんな見当違いのリコールが出来るはずもない。
所が意外に集まっていて不自然だと思っていたところ、案の定この署名の大半が不正だったのだ。いったいこの不正行為は誰が行ったのか。高須氏は責任者として説明の義務がある。河村市長はリコールを主張した市長であるのだから、解明の努力をすべきである。