無意味なクソ仕事 「ブルシット・ジョブ」
エッセンシャルワーカーのことを考えていたら、その対義語の方のことが気になった。「ブルシット・ジョブ」と出ていた。無意味なクソ仕事と訳すらしい。エッセンシャルワーカーの方は人間社会がある以上必要な職業である。なければ社会が成り立たないのだから当然である。
一方、ブルシット・ジョブはなければない方が良いような職業のこととある。実際にどういう職業か社会に役立たないか、いろいろ想像してみたら面白かった。絵描きはまず思いつく。坊さんというのもそうだろう。経営コンサルト、投資家、総会屋。反社会的勢力。ところが、読んでみるとこういうものばかりではなかった。
20世紀になって、「ブルシット・ジョブ」が増えた雇用との説明がある。専門職・管理職・事務職・販売職・サービス職。とくに管理系の仕事が増え、金融サービスやテレマーケティングなど新しい情報関連産業が創出された。
管理職と言う呼び名からしてない方が良い仕事に違いない。管理などなくとも動いて行く働き方こそ、楽しい仕事である。監視され、指図され働かされるのは奴隷仕事である。奴隷仕事の方がらくで良いという人がいるから、管理職などというものが出来るのだろう。
経営コンサルティングなどという職業もある。これもおかしな仕事だろう。何か仕事を興そうとして、あれこれ工夫し、満ちに挑むことが楽しいのだ。人に教えて貰い、それに従い、金儲けがうまく行ったからと言って少しも面白くないだろう。そうでもない、儲かれば良いという話なのだ。
そもそも、やっている本人たち自身が何の役に立つかわからない職業。あなたの職業は社会に貢献していると思うかという、アンケートに対して、働いている人の37%の人が貢献していないと思うと答えたそうだ。社会に貢献すると言えるエッセンシャルな職業はむしろ少ないだろう。すぐ思うのは医療従事者である。こんなに明確に貢献する職業はまずない。
受付係やドアマンなどの「太鼓持ち」職業と考えるといい。自分が重要な人物だと思わせるために存在している職業だ。案外こう言う職業は多いのかもしれない。中国では美女と目される大柄な女性がチャイナドレスを着てただ立っているホテルや、レストランが良くあった。今もあるのだろうか。日本にもあるのかもしれないが、そういう場所に出会ったことがない。
もう1つはロビイストや企業弁護士、広報などの「雇われ暴力団員」といえるような仕事。雇用主のため、攻撃的に防御的に活動する職業である。企業にはそうしたない方が良いような仕事がいくらでもありそうだ。クレーム処理係などもなくてもいい。
製品や契約のことで困って企業に電話すると、クレーム係に電話は繋がり、巧みにはぐらかされる経験が何度かある。私どもの会社が直接担当するものではありませんので。とかなんとか、うまくはぐらかす角の立たない話術だけの人である。
そのほかにも中間管理職などの「ムダな仕事製造係」などがある。どうも要らない仕事を作り出す必要が、企業にはあるらしい。労働者の働き具合を監視するような仕事ではないだろうか。監視などないほうが楽しく働けるだろうに。ーー以上のように様々説明が書かれている。
案外に、こうした無意味な仕事が重視され給与が高いことがままある。管理職の方が、管理される方より安くて当たり前だがどうだろうか。その結果エッセンシャルワーカーの待遇が悪いと言うことになる。監視する方が、実際働く労働者よりも上に立つ。
昔の農村では道普請は娯楽でもあった。みんなで久しぶりに集まり、村の暮らしのために楽しみ仕事をする。こう言う仕事は、仕事のようでもあり、娯楽でもある。終わってのお茶が、一杯が、村の結束を固める。
同じ絵描きでも、芸術家はかなり怪しい。イラストレーターはまだ良いのだろう。文筆家でも詩人とか、思想家など名乗ると怪しげになる。哲学者となるとほぼインチキのような気になる。小説家はまだ良いのだろう。まあ良いと言っても何が良いのかが難しいが。本当に必要なものの中には要らないものが混ざっている。
資本主義と言うものは、末期的になればなるほど、怪しげな職業を作り出すのだろう。資本は自己増殖するために、暮らしには関係のない要らない職業を作り出す。人間が生きるために不可欠なものだけでは、資本が増殖できなくなる。
食べて生きる。この素朴だけであれば、料理人は存在しない。ミツボシシェフなど要らない。いなくとも人間はひとまずは生きて行ける。しかし、美味しいものを食べたいと言うことだけでも、どこまでも先鋭化して行く。下層労働者の一ヶ月分の給与を一食で費やすような上層階級もあり得る。
資本は利益を生むものを探して、どこまでも自己増殖して行く。三つ星シェフを認定する美食評論家など、ブルシット・ジョブの代表になるだろう。そもそもテレビに出てくるタレントなど要らないと言えば、すべて要らない。
そうしたなくても良いような幻想世界を作り上げ、その尾ひれの中で生きる人達もブルシット・ジョブ。どうも、なくても良い職業にも、ない方が良いものから、どっちでもいいようなものまで、順番があるようだ。
私のような坊さんの絵描きはかなり要らない職業になる。傍から見れば困りもんだ。要らないものだから選んだ生き方だったのかもしれない。申し訳ないのだが、本当に申し訳ないことなのだが、エッセンシャルワーカーと呼ばれるような立派な仕事に就きたいと思ったことは一度もなかった。責任というものに堪えられない人間だ。
その意味では養鶏業だけは唯一エッセンシャルな仕事だったかもしれない。イネ作りもそうだったかもしれない。百姓は胸を張れる職業だ。しかし、私の場合これもあくまで自分の興味本位であった。自分が鶏と一緒に暮らしたいと言うばかりで、日本鶏を飼った。猫好きの猫のようなものだ。それでは申し訳がないので、何とか仕事にしなければと自然養鶏を始めた。
こうして、世間に後ろめたい気持ちを抱いて生きてきた。それで何とかその体験を本にして残せば、いくらか世間のためになるだろうと言うことで、イネ作りの本と、自然養鶏の本を書いた。好き勝手に生きた贖罪のようなものなのだろうか。
本当のクソ仕事はない方が良い職業のことだ。はっきり言わせて貰えば資本の手先となって這いずり回る仕事のことだ。拝金主義者のことだ。金儲けの何が悪いとうそぶくような連中のことだ。竹中平蔵教の信者のことだ。竹中氏の肩書きを見ると、まさに要らない仕事を増産している。
広告代理店も要らないだろう。要らないものを宣伝広告で売るための仕事。レストランの前に立つ美女のようなものだ。尾ひれにさらにリボンを付けるのが広告。もう社会は要らないものの方が多くなっている。社会が大きくなりすぎたのだろう。
その結果、エッセンシャルワーカーの待遇が悪くなっているのではないか。どうすれば良いのかをもう少し考えてみなければならない。