途中まで描いた絵のつづきを描く
外の明るい日は電気を付けないでもギャラリーは明るい。このところいろいろな絵を出してきて並べてある。よくよく眺めている。自分の絵だと言えるのは、どの方向なのかを考えながら見ている。こうしてみると何故描いたのか不思議なものもある。
水彩画は一度画面を中断して、その続きを描くと言うことが面白いし、この継続のやり方こそ絵を描く、つまり制作と言うことになる。この絵の継続の仕方には覚悟が必要だと考えている。写生から制作に変わり、自分の絵に向かい合うことになるからだ。
分からなくなると途中でも止める。分からないまま終わりまで行かないようにしてきた。最近は以前に比べると、終わりまで描くようにしている。終わりまで描くことで、進めることもあると気付いたからだ。それでも分からないままでっち上げるようなことは極力避けている。
水彩画の材料の特徴で乾くまで次の色を塗れないと言うことにある。たぶんその点では水墨画に近いのだろう。一気に描こうとすれば掛ける水彩画もあるのだが、同じ色を、繰返し4,5回重ねて出したい色を出すことがある。もちろん違う色を重ねることも良くある。結構面倒くさいような描き方なのだ。
そのために一日で描き終わることは滅多にない。一見短時間で一気に描いたように見えても、意外に複雑な手順が必要なことが多い。一日描いて数日眺めていて、描きつないで、2,3回で終わることが多い。場合によっては何年もしてから、思い出したように絵が進むこともある。
ただ進め方が分からなくなって、描きかけで終わりにする物の方がはるかに多い。こうしたものを1,2年して又見ていてこの先こうしてみたらと思うこともよくある。いままで分からなかったことの進め方が、最近の努力で身についたもので突破できることがある。
水彩画は技術的な難しさがかなりあって、かなり技術については努力してきたつもりだが、今でも新たな技法に気付くことが良くあるのだ。技術的な蓄積なくして、水彩画は描けるものではないと今更ながら感じている。
技術を高めると言うためには、過去の方法を否定しなければならない。一度身につけた技術に止まっていれば、新しい方法は発見できない。いつも自分が否定しているものにまで手を出してみないとならないようなところがある。
どんな表現でも出来るという自由がなければ、自分の絵など描けないと考えている。北斎が100歳まで毎日1枚描くと決意した気持ちがよく分かる。私ごときものが自分の絵を描こうというのだから、それ以上の努力が必要と言うことになる。一日2枚、120歳まで描かない行きつけないか。
描いた絵を捨ててしまうと言うことはない。数百枚の描きかけの絵が残してある。このところ整理のつもりで、描きかけの絵のすべてを見直していた。そしてその半分位はどこにも希望もない、良くもこんなものを描いたというものだ。この先を描くどころではなかったので、廃棄をした。
そして見ている間に、あれこれは行けそうだぞと言う作品を取り出してみた。ほとんどは石垣に来てからの絵なのだが、中には小田原にいた頃の絵もある。石垣に移るときに希望のないものは一度廃棄している。もちろん可能性がありそうな絵を持ってきているのだが、それでも又廃棄しなければならなかった。
希望のありそうなものは、描きたくなったらいつでも描きつなごうと思っている。描きつなげる絵は良いところで分からなくなり、中途で止めた絵だ。分からないまま最後まで描ききってある絵は良いかダメかのどちらかである。
もちろん今の目で見てである。情けないが何故これでいいと思ったのか不思議な絵が沢山ある。しかし、中には結構良くてすごいなと思うものもある。今は描けない分からないまま飛び越える若さのようなものがあるものだ。しかし今目指しているのはその程度のものではない。
今描いている絵と、描きつなげそうな絵をギャラリーに並べて眺めている。それで何かあれば続きを描く。その時にはそれを描いた場所に持って行くこともあれば、他の場所で描くこともある。もう一応は描いてある絵なので、別段風景を見ると言っても、確認しているのは空間とか光とかであって、具体的なものの説明ではない。
それでもどこかの風景を見ないと、空間の関係は時々見ないとやりにくい。その絵を描いたところに行く必要もすくない。先行き希望を感じる絵は、分からなくなったところで適当なことをしていない絵だ。分かった描き出しの気持ちが残っている絵は、その先が見えてくることがある。
その分からなくなった絵の目的地が、時間を空けて見えてくることがある。これがかなり重要に思える。その意味で今も分からなくなったらば、止めることにしている。先の分からないまま描いてしまうと、観念的な過去に獲得した他人の作り出した絵を利用することになる。これで道を誤る。
よさげな絵をでっち上げてしまい、私絵画ではなく、人の作った絵の後追いをやってしまう。そういうでっち上げ仕事を払拭するために苦労しているのに、今更無駄なことになる。人と比べないでかつてないもの、過去の自分でもないもの。新しく創造する仕事に向かいたい。
絵の繋ぎ方である。一度途中まで進んで止めたあった絵をどのようにつなぐかである。新鮮な気持ちで始めて出会うようにしたいと思っている。何より修正するとか、直すとかという気持ちは一切捨てる。そういう邪念のような気持ちが湧いてきたら、どうせくだらないことになるから、すぐに止める。
途中まで描いてあった道の先に進むだけである。未知の世界が何かその昔の絵に覗いていたから描きつないでいる。糸口をたぐる。完成というようなものではなく、その先を探る、見失えばそこで終わりにする。絵を描くと言うことは自分の世界観と画面との関係を探っているのだろう。
絵が自分になれば、それが一番良い。私が描いたと言って良い絵になれば良い。そう考えてみれば、まだ道の先は見通せない。しかしこのなんとなくこっちの方角らしいをたどる以外に道もない。当ての無いことではあるが、毎日絵を描きに行く充実が嬉しい。
問題は只管打画が自分への道であるかどうかである。絵を進めると言うことと自分を進めると言うことが、同じであるのかどうか。毎朝動禅をしている。この動禅は健康体操なのだが、100歳まで生きたときに始めて間違ってなかったかと言うことになる。
絵も同じことだろう。どんなやり方であろうが、絵がすべてを物語っている。100歳まで描いて自分の絵にたどり着ければ、間違ってなかったという話だ。その時間違っていたとしてももう一度やるというわけにはいかない道だ。こんなことを考えながら、ずーと絵を見ている。