絵を語る会
「石垣の野良みち」絵を語る会に持って行った絵。
3月6日神田のアポロ画廊で絵を語る会を行う。「絵で何をしようとしているか。」を中心に考えてみたい。私は学生のころ絵で社会を変えようと考えていた。社会を変えるために絵を描いて居ると主張していた。それは、夜中美術部のアトリエで絵を描いて居ると、学生闘争で引き攣った顔のヘルメット男が良く表れた。「絵を描いて居る場合か。」と主張するわけだ。私は反論する。「大学闘争をしている場合か。」そんなことで社会が変えられるか。こんなやり方では、むしろ悪影響ばかりだ。正しい方角でもそこに向かうには方法を考えるべきだ。大学を占拠して、授業を行わせないでいても何も変わらない。私は絵を描くことで、その絵の影響で人を変えるんだ。一人の人にわずかな影響でも与えることが出来れば、それが社会全体を変わる可能性はある。だから絵を描いていうのだ。面白と思ったのか、他のヘルメットも現れるようになった。夜中の激論である。たぶん、長い占拠暮らしで退屈していたのだろう。
夜中、安全と見計らって、明かりのあるアトリエに表れる。湯沸かし器でインスタントコーヒーを入れて飲んだ。金沢大学の良いところは、アトリエで寝ていても良かったことである。美術部の部室には畳と炬燵があった。布団もあったのだ。そこに時々寝泊まりもしていた。4年の時には下宿ではなく、県体育館の裏の第2美術部のアトリエに暮らしていた。それでも何か言われたことはなかった。話はそれてしまった。ヘルメット男との喧嘩腰の議論の中で、絵で何をしようとしているかを考えた。絵を描くことは社会を変えるためだという目的意識を持つようになった。それは小林秀雄の近代絵画論の影響が強かったと思う。ただ、メキシコの壁画運動のように社会全体に影響を与える絵画という方向ではなく、一人の人間の何かに働き掛けられる絵を描きたいと考えた。そのまま、30歳くらいまでその考えで絵を描いて居たと思う。
そしてそのことが到底無理だと気づくのが40前だった。展望を失い、挫折の中で絵を描くことになった。自分の力がないから無理という事もある。絵というものに人を変えるような力がない時代になっているという気にもなった。こうして、30代は絵描きの道を探り続け、やるだけやって諦めがついた。商業絵画の時代という認識。商品絵画を目指さないものには、生計の道はない。それなら、自給自足に生きて死ぬまで絵を描き続けられる道を作ろうと考えた。絵は幸いなことに一人で出来る。とことん、徹底して自分に従い描いて見ようと考えた。山北の山の中で開墾生活を始める。その中で、見えている物の不思議を感じるようになった。自然と人間のかかわりが、見えるようになった。この見えているものを、当たり前に美しいと呼ぶのも良いと思うようになった。
人間が生きるという事は、食べ物を作るという事を通して、自然とかかわりを持つ。それが東洋3000年の循環農業になった。自然を手入れして、大きな改変なく、自分の命を自然の中に織り込んでゆく暮らし。当たり前の風景に、人間が作り出した手入れされた風景がある。その風景には永遠につながる、人と自然のかかわりが織りなしている。これを描いてみようと思うようになる。やっと美しいというものの実態に近づいてきた思いである。絵としてというよりも、人間の暮らしの記録を残したいという思いである。田んぼを描くとしても、縄文後期から田んぼらしきものが作られ、何千年も描けて、自然の中に溶け込むように、完成された姿がある。畑も同様である。山とのかかわり、川とのかかわり、循環してゆく形が、ある形を生み出す。多分この姿は、近く失われてゆくことだろう。すでに失われたと言えるかもしれない。ここで、私には感じられる人間の暮らしの姿を残して置きたい。その里地里山の空気を絵として描き残したい。多分それは私以外にはできないことではないかと思っている。
以上のようなことを昨日話した。大体30分ぐらい自分の絵を語った。語ることで覚悟が決まるようなところがあった。集まった人はⅠ2名。絵を飾った人が8名。8名が自分の絵について語った。次回は6月24日にやろうと話した。