自分の匂いのする絵なら良し

   



 私絵画を目指している。私絵画とは自分のために描く絵のことだ。自分をやり尽くすための絵画である。具体的にどんな絵なのかと言えば、難しいのだが、自分の匂いがするような絵ではないかと思っている。どこがと言われても自分というものが、はっきりとは分らないのだから、具体的な言葉には出来ない。

 絵を描いていると、誰か大先輩の絵が表れてくることになる。学ぶは真似るだ、というように、傑作というお手本の絵を模写して製作するのが、日本の絵画の修行方法なのだ。しかし、それは日本独特の装飾絵画の世界の話で、その伝統を引きずって居る。

 藝術としての絵画は、真似ていたのでは産まれない。本来の絵画は創作である。当たり前すぎることなのだが、この芸術の創造性に関する意識が日本ではあまりに弱い。ないと言っても言い。だから実用絵画は盛んであるが、藝術としての絵画はほとんど無い。

 他人の創作した結果を、どうすれば消せるかが、75歳までの私絵画の道だったのだと思う。他人を消した後で残る自分というものの捜してきた。当然のことだが、他人から学んだ要素をできる限り消してみた所で、自分というものが表れてきたと言うことではなかった。

 70歳からかなり具体的に他人を消す努力をした。真似の部分を消すと言うことよりも、それまでの自分を消すと言うことであった。無理なことを続けていたような気がしていたのだが、最近ある程度出来たのでは無いかと最近感じる事がある。

 厳密に言えば、よく分らないことなのだが、自分の絵の中に人まねが出て来る回数が減ったような気がしている。では今描いているものはどこから表れたのかと言えば、自分が見た感じに近づいている。それは見ると言うことが少し深化した。と言えば言いすぎかもしれないが。

 意識してどういう絵を描こうというような、頭で考えることを止めている。ただ画面の前に座り、引き出されるものにしたがっている。何を描くかすら決まらないまま始める。筆が描いたものが、次に描くものを引き出してゆく。色が次の色をさそう。自分が良いという方角にだけ進む。

 人まねをしているのか、そうでないのかの違いはかなり難しいことで、自分の大半の絵が人まねに見える日もある。他人が人まねであろうがなかろうがどうでも良いことなのだが、絵は真似ることが身についている。伝統的な日本の絵画、つまり装飾絵画であり、商品絵画としては当たり前の事なのだ。

 ここを抜けるのが大変なのだ。真似が匂うことが、耐えがたいほど恥ずかしいことに感じるのだ。自分の絵に人の絵の真似らしいところがあると、絵を描くのさえ嫌になってしまう。それは自分という人間のインチキ性を表わしていることが、見え見えになるからだ。そんな哀れなことまでして絵を描いても何にもならない。

 そんな恥ずかしいことをしてまで、人目を気にするのかと、自分の内心が耐えがたいものに思えるのだ。もちろん意識をして人まねなどするわけもない。無意味なことなのだから当たり前のことなのだ。無意識のうちに他人の絵が表れてきてしまうので困る。

 これには本当に困る。この無意識に他人が現われることを何とか止めるのに5年はかかった。無意識に絵を描くのだから、他人が登場するのも無意識であるし、自分が現われてくるのも無意識の行為なのだ。だから、無意識であっても他人が登場しないところまで、自分自身をそぎ落とさなければならなかった。

 自分が良いと思っていることをまず捨てなければならなかった。これは難しいことだった。どんなにひどい絵になっても自分をご破算に願おうと考えて絵を描いた。良い感じというものが他人の受け売りの可能性がある。だから、見ている自分の眼だけで感じて絵が描けるまで、人のみ方を捨て去る努力をした。

 これが何とか続けられたのは、絵の仲間が居たからだと思う。私のやろうと居していることを、おかしな事だと思いながらも受け入れてくれた人も居たから、続けることが出来た。恥ずかしいことばかりだが、何もない時点に戻る努力の馬鹿げた姿を、何とか見ていてくれた。

 これはほとんど進まない極めて難しい、繰返しであった。それが最近何とか、いくらか、人の受け売りは消えてきた気がしているのだ。思い込みなのかも知れないが、その結果自分の匂いを少しだけ感じるような気がしたのだ。自分が描いているとも思えないのは相変わらずなのだが。

 碌でもない絵でも自分の眼が観た世界を描いていれば、それが自分の絵なのだ。そういう絵がすこしづつ表れるようになってきた気がしている。これは石垣島で描き続けた御陰かも知れない。その理由は石垣島という、独特の世界を描いた絵は過去見たことがなかったからかもしれない。

 受け売り絵画は小田原の眼が作り上げたものだ。東京の絵の世界とフランスで勉強したものと、小田原の眼とは当たり前の絵画世界の一般的な眼だ。だから、多くの有名画家の眼に似ていても良く判断がつかなかったのだ。絵はこういうものだと思い込んで良さそうに描いていた。

 所が、石垣島に来て、のぼたん農園でみている世界は、誰も描いた人が
いない世界だった。熱帯の世界を描いた絵というのはあるが、田中一村やタヒチを描いた、ゴーガン。あれは作り絵であって、観た世界を感じて表現しているわけではない。奄美の光とか、タヒチの世界観とか持てはやすが、強い光の下の色彩が、分らないとしか思えない。近いのはやはりマチスだ。

 沖縄には絵描きは少ない。デザイナーはいるのだが、いわゆる藝術としての絵画を目指すような人は一人も見たことがない。特に石垣島には一人もいない。少なくともかつて居たということも聞いたこともない。だから、石垣の今観ている世界は絵画で表わされたことがないのだ。

 そのこともあって、石垣島で観ている世界を描くことは、私が人まねをすることでは無意味だったわけだ。そのために自分の絵を描ける事に近づけたのかも知れない。これは意図したことではなかった。偶然とは言えありがたいことだ。観ている世界を描くために、真似をする材料がなかったのだ。

 こんな解釈は無理矢理付けた理由だと思う。石垣で見ている世界を繰返し描いている内に、自分の眼を通した世界のように感じるようになってきた。そ言う言う思い込みに過ぎないかも知れない。それでも、今見ている感じに絵が近づいているとは思う。

 どうであれ、今のままに続けようと思う。他に出来ることも無い。少し絵が変でも大丈夫になった。出来て無くても大丈夫になった。何かぎこちない絵なのだが、そういうことはがまんしよう。受け入れようと思う。それが自分であるかもしれないから。

 - 水彩画