動禅体操の手順と要点
朝の動禅がなんとか続いている。今年も根気よく続けたい。改めてそう書かなければ継続できないので書いた訳で、少し恥ずかしい。なかなか動禅体操が楽しいので、やりたいと言うところまでは進まない。やりたくないなぁー。おっくうだな。と言うのがやる前の気持ちなのだ。
朝起きるとブログを書く。最近はブログを書きながら、あちこちの記事を読んだりしているので、それが2時間もかかることになっている。ブログが途中でも、6時に成ったら、動禅を始めることにしている。しかし、始めるときにはかなりおっくうである。
そうかしょうが無い、スワイショウだけでもやろうか。と思いどっこらしょと始める。それでも、始めれば何とかなるのは分かっている。やっている内にやる気が出てくる。スワイショウで身体を回し、頭も振るので、脳の中でやる気のホルモンが絞り出てくるのではないかとおもわれる。
ドーパミンとかセルトミンとか言うらしいが、ともかく眼を閉じてスワイショウをやっている内に、8段錦まではやろうという気になって来る。不思議なことだが気分が変る。スワイショウはただ手を振るだけなのだが、自分なりにやり方を工夫している。腰を鍛える体操ということに考えている。
農作業は腰を酷使する。多くの農業者が腰を悪くする。腰の筋力を鍛えておかなければ成らない。と言ってスクワットのような体操は腰を痛める可能性が高い。兄はスクワットで腰を痛めた。自分の身体に合うように、スワイショウの形を変えている。身体の力を抜いて行う。緩めた身体で運動は行うことが良いようだ。
腕を大きく振る。腕は水平にできる限り大きく振る。手と腕を投網を投げるように振り捨てる。この時に腰は安定させ、腰骨の上に上半身を乗せて、回転しているように大きく振り回す。大きくだが力は抜く。この力を抜くというのは、要点である。呼吸は口を開いて行う。
往復で一回として、100回を口に出して数えながら行う。200回ぐらいはやりたいのだが、それでは後動禅までが続かないので、100回にしている。良さそうなら、10回。20回と数を加える。それはどの動きも同じで、小脳に任せて数は増えても減っても気にしない。
スワイショウの瞑想効果かも知れない。ぐるぐる回りトランス状態に入る宗教が確かアフリカの方にある。運動しながら意識が集中を高まって行くと、だんだん気力が増してくる。スワイショウだけでもと思い、気力を振り絞って始めたものが、いつの間にか、8段錦まではやろうとなっている。だから、始めるときにはスワイショウだけでもと思えば始められる。
八段錦は動禅という意味より体操的な物だから、力が抜居て行いたいと考えても、身体にそれなりに力が入ってしまう。それでも欧州少林寺のように力んで格好を付けてはいけない。百姓の畑仕事のような動き。力が抜けて、長くやれることは何事にも大切である。
太極拳は力を抜いて行うので、それに較べて8段錦ではいくらかは身体に力が入っても良いと考えている。八段錦にも様々な型がある。流派があるようだ。基本の動きが分かったので、自分に合うように変えている。自分に合うように変えると言うことは、体操では大切なことだ。特に手を10数える間上に上げるのは、血流にとって意味がある。
欧州少林寺の八段錦から型を学んで取り入れている。ただこれは動きが力が入り、格好を付けすぎている。姿勢が良いのは大切だが、無理を感じさせるものは堅苦しい。もう少し百姓ぽい不細工で地味な方が良いと考えている。見られていることを意識させるようなものは良くない。
八段錦は呼吸法でもある。口をとがらせて、呼吸を鍛えるつもりで、限界まで呼吸が出来るようにしている。呼気も吸気も絞り出すように行う。動きに合せることで限界を超えられる。そして、呼吸を長く止める事も意識する。吸って止める。吐いて止める。止めている状態も呼吸法である。
八段錦は本気でやると、それなりに疲れる。疲れて止めたくなれば、そこで止めることにしている。しかし大抵の場合は、8段の最後の背伸び禅をやっている内に回復する。太極拳をやるかなと思えることが多い。太極拳は何時どこで止めても良いと思い始めている。
太極拳は力を抜いて行う。自動人形が動かされているように、静かに能のような動きである。どれだけゆっくり動いてもいい。これ以上ゆっくりには動けないという所まで行くのが理想である。力を入れないで、ゆっくりとゆっくりと動いて、バランスが崩れない。眼を閉じているので、実はこれが非常に難しい。
動禅体操全体を眼を閉じて行っている。眼を空けていると視覚を頼りバランスを取ることになる。これでは禅にはならない。禅における眼は半眼である。薄く開いているが見えては居ない状態。半眼が出来れば良いのだが、半眼が出来ないので、閉じる方がましだと考えている。
太極拳を視覚に頼り行うと、重要な動禅ではなくなるおそれがある。中国の太極拳が競技スポーツ化したように、心の世界から離れてしまった。大切なことは心の深さなのだから、心に集中するためには視覚はないほうが良い。一定の心境に達することが出来たら眼は開けることにしている。<
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動禅全体通しての心の置き所は、身体の中をきれいな水で洗い流しているような心持ちである。特に頭の中を清浄な水で洗っているように意識しようとしている。坐禅のように空の状態は難しいので、むしろ意識を身体の動きやバランス一つに集中するようにしている。
そして、坐禅でも丹田と言うが、腹筋当たりを意識している。ボディービルダーが強くする筋肉を意識すると言うが、お腹の辺りを意識することで、腹筋が鍛えられると言うことがある。丹田を意識するのは内臓脂肪を溜めたくないというのもある。動禅が終わると、お腹が温かくなっている。しかし、お腹は一向に鍛えられた様子はない。
一通りやって45分ぐらいである。慣れれば疲れるようなものではないが、それなりの運動量はある。歩数計を見ると多くて100ぐらい増えるだけだ。ほとんど動いていない。全体に歩数計には現われないぐらいゆったりとしていることが良い。
行うのは夜明けか、夕暮れが良いようだ。夜明けだけやっている。夜もやってみたことはあったが、とても継続できなかった。朝が特に人間の身体の体内時計に合う。活動を始めるときに、静かに気持ちを整える。理にかなっている。今日一日に期待が膨らむ。