生成AIと絵画の未来

生成AIが登場して、絵画は写真が登場した時よりも、大きな影響を受けると思う。今のところ、画像的な範囲であるが、マチュエールや墨絵のような筆遣いも再現されるようになるに違いない。すでにできるのかもしれない。技術が進展して絵画は変わると、絵を始めた60年前に主張していた。
次の時代における意味ある絵画制作は何かと考えて、絵を描いてきた。複製画の問題を中心に考えていた。ダビンチや雪舟と自分の絵を、同時現に並べて考えなければならないというようになることだった。今制作するということの意味を重視しないとならない。
そして、生成AIが現れて、過去の絵画と同列になるどころか、未来の絵画とまで同列に考えなければならないような奇妙な時代になった。人間の技量をはるかに超えて、誰もがアイデアだけで、AI的に制作してしまう時代になったということになる。
絵画を制作するということに技術が意味がなくなる。写真的写実絵画はすでに無意味化しているのだろう。すごい技量だということで、驚かされるということがなくなる。機械に匹敵するほどの技量があるということなど、そもそも無意味なことなのだ。
絵にしたいものさえあれば、言葉で生成AIに命令することで絵ができてくる時代が来ている。手仕事的な意味合いは失われる。職人的絵画の消滅になる。こうしたことは、想像60年前にも想像できることだった。にもかかわらず、そういう絵画を志す人が多いいことに、人間の愚かさを感じ続けてきた。
絵画の存在意義は、描くという行為と想像するという脳の働きに集約されていく。私が長年主張してきた、「私絵画」だけが残ってゆくということだ。芸術の問題は、人間の内部のことだけになってゆく。それは当然のことであり、芸術は人間にとってどういう意味があるのか。ということなのだ。
人間は生まれてきて死んでゆく。いつか人類も消滅する。人間が作り出したものも、すべて消滅する。その中で、人間一人一人が100年前後の命をもらい、活動をする。人間には知能が存在し、その100年をいかに充実したものとして生きるのかと模索する。
その模索の中に、芸術的行為がある。同じく科学や宗教や哲学もある。人間の為の科学ということが言われる。人間の思いは、より充実した生命の輝きだろう。生きて悔いのない人生を送るということだろう。そして、絵画を描くという行為に生きる充実を感ずる人もいる。
描かれた絵がAIの描く絵よりどれだけ見劣りしようとも、描く人間の行為だけは代替はできない。じぶんのAIよりは劣る頭脳を用いるにしても、描く充実の体感だけは残る。自分が生きることを見つめる手段として、描くという行為の意味は問われ続けるはずだ。
絵を描くという手の行為が、脳の活動と連動する。私は小脳的行為と呼んでいるのだが、それは実感としてはよくわかってはいないことなのだが、何か重要な意味があると感じている。太極拳の体験を事例としてあげれば、まず毎日一時間の太極拳を1年間続けると、記憶能力の低い私でも、太極拳を覚えることができた。
次の一年間は太極拳を忘れてる努力を行った。毎日思い出さないでも、身体が自然に動くまでにはまた一年が経過した。そして、3年目にただ太極拳をしているだけなった。思い出しながら太極拳を行うのではなく、歩いているように太極拳の流れに従うことができるようになる。
これを進めてゆくと、美しい太極拳に至る。見る人にもこの達人の動きから、発している力を感じるようになる。その時には大脳でなく、小脳で動いている。弓の名人が弓を見てこれは何に使う道具なのかと不思議に思ったという領域に進む。
私絵画として絵を考えてみれば、意識して描くということは絵を覚えるという年限であろう。私の場合、この期間は10歳くらいから、40歳くらいまでであった。絵に関するあらゆる学習を行った30年であった。そして、それからの30年、無意識に絵が描けるようになった30年である。
そして、70からの30年はこの筆は何に使うものですかというところに向かう、30年ではないかと思っている。まだ筆は絵を描くものだということは認識している。しかし、絵を描く方法とか。良い絵とか。そういうものはだいぶ忘れてきた。
はたから見ればだいぶぼけてきたわけだ。ボケたならばボケたで結構だと思っている。ただ自分の行為としての描くという行為に重きを置きたい。只管打画である。何かに向かうのではなく、描くという行為自体にすべてがあるとする。描くことの結果に何も求めない。
ただ、そこに現れた絵に、じぶんの修行の置かれた状況が見えるということではないかと考えている。私の場合で見れば、いまだ邪念が強い。捨てたい捨てたいという、つまらない考えが漂っていて、すがすがしさがない。乞食禅の兆候である。
どこから来て、どこに行くのか。この生きるという瞬間を絵を描くという行為の充実で埋めたいということになる。まだまだこれでは終われない。本当の充実がないということを絵が示している。まだまだダメだと分かることが、絵を描くありがたさだ。
ダメでもいいじゃん。ダメだと認識して、日々精進である。日々の一枚である。格別なことはないのだが、絵がわずかな深まり見せていると、見ている。人にはどう見えるかはわからない。またどう見えるにしても、そうですかとできる限り素直に受け入れて進もうと思っている。
それが水彩人での活動だと思っている。一人での修業は危険だ。どこに陥るかわからない。思い詰めることは危険だと思う。だから、同じ志の仲間が必要なのだ。水彩人があってありがたいと思う。大勢の中に並べてみてわかることがある。
生成AIに置き換わるだろう仕事がある。多くの絵画がそうだともいえる。絵画の画面を通して作者の見えない作品だ。作者の人間が問題になる制作こそ、これからの時代の芸術としての絵画ではないだろうか。世界は混とん化している。苦しい時代の中で、描くという行為に自分の存在確認をするということだろう。
水彩人がそうした私絵画の方向の組織であるとは、言えない。水彩人展でもかなりの作品が、制作者が見えない作品である。こうした状況を生成AIは変えてくれるかもしれない。機械のように正確なために、写真のように正確なために、あるいは水彩画の手順書に従って描いたかのような作品。が徐々に淘汰されることだろう。
絵を描くとは何か。これがAI絵画の登場で問われている。「私絵画の時代」が来るということだろう。人間は人間らしい行為である芸術行為を行う。そのことに絵を描くことが、段々に移行している。