報道の問題点

   



 木に着生させた「エンシクリア」

 何度も書いてきたことだが、どうしても書きたい。このブログも最小の報道だと考えているからだ。報道が劣化したために民主主義が危うくなっている。アベ時代の高市元総務大臣が報道を直接潰した責任者だ。それは偏向報道を無くそうとしたことだった訳で、今も正面から戦えば良いはずだ。
 高市氏はアベがいなければ何も出来ないのか。裏で様々画策して、今や報道が言いなりになったので、圧力をかけたことがないような態度に変わったのか。ごまかして済むようなことではない。右翼におもねる女性議員は、豹変する。用済みということか。

 報道が批判精神を失った、その事例がアメリカのトランプ大統領の登場である。アメリカは民主主義の国ということになっている。アメリカの報道を見ていると、その民主主義がかなり危うくなっていると感じる。今になってトランプ前大統領は今度は逮捕されたが、これもまた良く分からない。

 なぜ報道が劣化してきたかといえば、資本主義が最終段階に来ているからだろう。報道も経済に負けたということだ。利益が出る報道にならざる得なかったのだ。スポンサーが付かないのではやっていけないということが、問題なのだろう。そこをやせ我慢するのが、報道の精神ではないのか。

 この点NHKは経済から独立していて良かった時代もあったのだが、今度は人事で圧力をかけられて、批判精神を失った。いまやNHKは中立という建前になった。この報道の中立性というものがそもそも、おかしいのだ。報道は権力を批判をするための存在である。この立ち位置を忘れると、中立はつまり、体制を守る組織になる。

 こうして新聞テレビが批判精神を失う中で、いつの間にか日本人全体に批判精神が消えてきた。批判をしているよりは権力に近づいて、甘い汁を吸いたいというような緩んだ空気の社会になった。権力を正面から批判するような、人間が一人一人減って行く。

 アメリカが世界の警察だと言われてきたのは、アメリカの独善ではなく、世界の公正さを維持するためと言うことがアメリカの行動原理となっていた。その背景には政府を越えたような報道があった。それはいつも紙一重のことなのだ。トランプは明確にアメリカの利益を優先した。

 日米安全保障条約が日本の安全保障の根底にある。しかし、アメリカの国益が中心になるとすれば、危険な条約ということになる。防人としての日本を犠牲にすれば、アメリカの安全が守れるという考えが強くなれば、日本を戦場にしておけば、アメリカの安全が守れると考えかねない。トランプはそう考えていただろう。

 プーチンがウクライナ侵攻を行い、ロシア国民がそれを熱烈に支持している。その原因はロシアの報道に批判精神が失われているからだ。日本でも報道に批判精神が失われ始めている。その原因は複層的にいくつも考えられる。報道も末期資本主義に巻き込まれたということなのだろう。

 アベ政権か高市総務大臣や自民党議員が報道が偏向していると、圧力をかけた。高市氏は今更ごまかしているが、結果を見れば権力の圧力が勝利して、報道が牙を抜かれたのだ。現状を見ればその結果は明白である。報道機関は経済と人事を権力に対して忖度したのだ。

 簡単に魂を権力に売り渡したのは、生活や身分が大切だったからだろう。もちろん売り渡したことすら気付いていない報道関係者が普通だ。そもそも報道は中立であるべきだというような、世迷い言を報道自らが主張するようになっていたのだ。報道に中立などあり得ない。

 権力に対して中立を自ら申し立てるときはすでに、「私は批判をしません」と完全に譲った姿なのだ。権力の問題点を調査し報道するのが、そもそもの報道の役割なのだ。報道が権力の宣伝機関になるなら、それは報道ではなく、広報のような物だろう。

 権力は常に批判されなければならない。それが民主主義の大原則である。あらゆる角度から批判をされ、その政策が検証されている必要がある。民主主義のもう一つの原則は少数意見の尊重である。社会は異なる意見で構成されていなければならない。

 ロシアでも、中国でも、北朝鮮でも、独裁国家には反対勢力がない。反対勢力を力で押え込んでしまうからだ。これはある意味効率の良いことだ。良いことをやる場合だって、反対意見はある。少数派の反対意見に耳を貸さなければならないから、作業効率は悪くなる。

 しかし、その遠回りしなければならない道筋が民主主義には大切である。自由な反対意見があることで、大きな間違いが起きないのだ。もしロシアに自由な報道と、自由な国会が存在すれば、ウクライナへの軍事侵攻はなかったに違いない。普通に暮らしている人は戦争に行きたくないに決まっている。

 プーチンがロバの耳になったのは、批判精神のある報道がないからだ。批判精神のある報道があれば、それぞれの頭で社会にある問題を考える市民が存在できる。独裁国家という物は市民が社会問題を考えたところで無駄な社会なのだ。すべてがお上のいうとおりしか出来ない社会だからだ。

 そう
いう報道のない社会が日本にも近づいている。そのもう一つの原因がSNSと言うものだ。と言われている。私の書いているブログもその中に含まれる物なのだろう。誰もが自分の考えを公表できる。この意味を重大だと考えて、ブログを始めた。ブログの前は紙媒体のピースカフェーという通信だった。

 今神奈川で2期目の県会議員に当選した、佐々木奈生美さん等と始めた。小さなことだろうが、やらないことには始まらないと考え続けてきた。紙媒体よりは、ブログの連携でやろうと言うことで、このブログを始めた。準備してくれたのは石井武さんだ。

 まったく小さな行為ではあるが、この小さな行為が積み重なり、それなりの主張になると考えてきた。ソーシャルメディアの大きな特徴は、誰もが情報の発信者であり受信者であるはずだった。そのことで大衆の方向性が作り出されると考えた。

  情報やメディアの大衆化が起こったことは確かなのだが、それは大衆という物の劣化に成っていった。誰もが発信者になった結果、悪貨が良貨を駆逐した。多くの人の注目を集める為に、回る寿司屋で一つつまみ食いをするような行為だ。

 ユーチューバーという職業が登場した当たりから、個人でもお金のためだけに生きる人が目立つようになった。ユーチューバーで自由な生活をすると言うことが、何時は注目を浴びなければならないという不自由な暮らしになる。お金がすべての時代が報道の劣化を招いているのだろう。

 

 - Peace Cafe