稲直播き栽培

   



  直播き栽培は自給農業では探求すべき方法だと考えてきた。直播きをして苗を作っていると考えれば、苗代を作る手間が省けることになる。また稲の生理からいって、移植するということはないほうが良い。特に石垣のような風の強い地域では、どうしても活着が遅れる。場合によっては風で枯れてしまうこともある。
 
 今年の稲直播き栽培は成功と失敗の両方があった。ネズミに食べられなかった田んぼは直播きが成功したのだが、ネズミに次々に食べられて失敗になった田んぼもある。一番上手く行ったのが、写真の7番田んぼの「とよめき」である。ネズミの多くいるため池から離れていたために、全部は食べられなかったのかと思う。


 どれも1本植えになっている。3粒ほど播いたのだが、1本を残して発芽しなかった場所や、ネズミに食べられたところに、田植えをした。結局のところ今回で直播きは止めようと思う。ネズミにこんなにやられるのでは続けることが出来ない。

 ネズミを薬を使って、退治してからやればいいという話もあったが、そういうやり方はどうもやる気がしない。ネズミを殺すということに始まり、ネズミを餌にしている、カンムリワシにも問題が起きないとは限らない。ネズミと折り合いの付け方を探して見たい。


 今回の石垣島で直播きをやってみて、分かったことは2つある。一つは1年目はいなかった、ネズミが急激に増えたということだ。水のある自然環境が出来たことで、自然環境が変わった。そこに暮らす生き物も変化してくる。全体でいえば、生き物の多様性ができたと言うことだろう。

 二つめは石垣島ではどんな時期でも稲の種まきができると言うことである。12月4日に播種した種が問題なく生長した。これは画期的なことだ。たぶん石垣島でも12月初めに直播きした人は、いなかったと思う。12月からハウスの中で苗作りをする人はいる。

 12月4日蒔きということは、1月初めの田植えということになる。それから現在4ヶ月で15枚の葉がでた。石垣島で始めて一五枚葉がそろった栽培になった。石垣自慢お一番寒い時期の栽培であれば、健全な成長が出来る可能性が高いということのようだ。

 今年は2月が渇水で田んぼは乾いていた。水が足りないので、農業用水を購入して撒いたくらいだ。それでも7番は比較的水があったので、15枚まで葉がそろったのではないかと思う。8番も同じ直播きだったのだが、水が少なく成長が止まり、まともな稲にはならなかった。

 8番田んぼは7番からの水だけなので、水がなく乾いていた期間が長かった。水がないと涸れないのだが、長が遅れる。十分な株にはならない。現在、12葉期ぐらいだ。「とよめき」の品種特性もあるのかと思う。「とよめき」は「イクヒカリ」と「和1289(やまだわら)」との交雑品種からの選抜とある。

 とよめきは多収量品種の中では玄米で食べるのであれば、美味しく食べることが出来るものだ。石垣のような暑さが続くところでも栽培が可能。インディカ種がいくらか交雑しているためかも知れない。作りやすいと言うところが素晴らしい。

 直播きはしばらくは止めにするつもりだが、直播きの良さは確かにある。田植えをしないで良いということが何よりである。雑草との関係は意外に困らなかった。草は2年目までではまだ生えてこない。田んぼに何とかコナギを入れないでいる。溜め池にはコナギがある。

 今出てくるの雑草は、タカサブロウとカヤツリグサである。抜きやすいので、手取りをしても何とかなっている程度だ。後は牧草が田んぼの外から侵入する。この方が手強い。雑草が余りで無いと言うことが、直播きが出来る条件だろう。ある程度大きくなる頃にはアカウキクサが広がり、草はでなくなる。

 アカウキクサは直播き田んぼと相性が良い。7番田んぼは初期からアカウキクサが広がっている。アカウキクサで苗が倒されることはない。分ゲツが止まると言うこともない。アカウキクサの下からは雑草は生えない。アカウキクサは緑肥になる。

 ひこばえ農法は連続して行く農法である。一度株が生育してしまえば、何度でも株出しをしてゆく。ひこばえを成長させて次の世代の稲にする。肥料が田んぼで生産される形が望ましい。レンゲのような冬の緑肥ということが出来ない。

 その点アカウキクサは一年中いてくれるので、上手く土壌に貼り付けて、コロガシをかければ肥料になるだろう。上から落ち葉や稲わらや、籾殻を流し込むのも良いかと思う。そうしてコロガシを入れれば、土壌に腐植が増えてゆくことになる。

 落ち葉を山から取ってきて入れたいと考えている。落ち葉は草よりも良い。落ち葉はミネラル分が豊富にある。窒素分も稲わらなどの倍ぐらいある。時々田んぼに入れてやれば田んぼの土壌のバランスが良くなってゆく。経験的に考えると、草堆肥よりも落ち
葉堆肥の方が畑の土壌を良くする。

 昔は落葉樹のマキやまがあった。20年サイクルぐらいで薪を切り出す。年々切り出す場所を移動したわけだ。20年ぐらい経つとクヌギの林が回復して、また薪を切り出せる。12月になると、毎年薪作りをした。1年分の薪は木子屋の軒下まで一杯にする。

 薪山は2町歩ぐらいはあったのだろう。この山から毎年下の畑まですべての落ち葉を掃き集めるのだ。畑が小高い丘になる。この落ち葉に糞尿を担いで行きかける。これが1年分の堆肥になり、野菜畑に入れていた。当たり前の向昌院での暮らしであった。

 高校生にっても、この落ち葉かきと薪作りには向昌院に出掛けた。そして正月を向昌院で迎えた。昭和40年くらいまでの暮らしだ。藤垈集落にプロパンガスが入るまでの暮らしだ。大変だとは思わなかった。東京からわざわざ手伝いに行きたいぐらいおもしろかった。話はそれてしまったが、落ち葉堆肥で
思いだしたことだ。

 - 楽観農園