美の考え方
子供の頃から絵を描いていて、美術というものをやっているのだと思っていた。小学校でも中学校でも美術の時間と言うでそう思ったのだろう。しかし、高校生の頃になると、絵を描いていながら、自分のやっているのはどうも美術と言うことでは無い。そうした疑問が湧いてきた。
大げさに芸術作品を作りたいと考えたが、美術品を作ろうなどとは思わなかった。飾れる美しい作品を作りたいと言うより、絵画作品は自分を絞り出す表現なのだとする小林秀雄の考え方を、浅い読み方で考えるようになったのだと思う。その頃から、絵を描くにはむしろ美術という考え方は遠ざけなければならないものと考えるようになった。
大学に入り岡本太郎の芸術論を読んで、ますます日本の美術工芸は遠ざけなければならないものだと確信するようになった。日本の美術は床の間芸術だ。床の間におかれて、座りのよいものは恥じなければならないと考えるようになった。絵描きは建具屋ではない。居心地の良い部屋の収まりの良いような作品は芸術から遠ざかる。
自己表現すべき自分というものに、向かい合う必要があると考えるようになった。岡本太郎の考え方は日本の芸術論の中で最も優れていると今でも考えている。正しい考え方であるにもかかわらず、作品が魅力が無いのは、岡本太郎と言う人間に魅力が無いからだと考えた。つまり、自己表現だとすればそういうことになる。
最近岡本太郎の作品は素晴らしいという人に出会った。そして話を聞いている内に、私にとって岡本太郎がつまらないのは、岡本太郎という人格と私が大分ずれているからのようだ。人間のできの問題では無いと言うことかもしれないと。中川一政が素晴らしいと言っても、岡本太郎評価の人には何のことか到底理解できないだろう。
自己表現の芸術とは、そういう物になるはずだ。その人の人格と共鳴する人は限られている。人間の思想や哲学、好みはそれぞれのものだから、芸術作品ということになれば、いよいよそれぞれに共鳴するものが違って当たり前である。本来優れた藝術は出会える人も限られているのだろう。
現代社会は資本主義末期である。ありとあらゆるものが商品化している。当然芸術作品も投機対象になる。値上がりをする作品が評価できる商品であり、作品と言うことになる。そうした美術界の構造が、芸術作品をますます混乱させるものにした。
商品としての絵画販売に、飾り物としての美しいと言うことが重要な要素になる。美しいという概念にはかなりの共通性がある。美学という学問の領域がある。美とは何かを考える学問。時代や民族によって美というものは変わって行く。平安美人と江戸の美人そして現代の美人。その理由を探るような学問らしい。本当はよく分からない。
そこで言う美というものは芸術表現と考えて見れば、一つの社会の傾向ぐらいのものだと思う。私が問題にしたいのはそういう意味の美のことではない。真理としての美というものがあるのだろうかという疑問だ。あるとすれば美は絶対的なものになる。
なぜそれを美しいと感じ、美という概念が出来上がるのかを考える。単純に美というものを、芸術作品とつなげて考えて、その時代の美はその時代の絵画にあると考える人さえ居る。これは間違いやすい狭い考えなのだ。どれが美しい作品であるかと作品を見ているのでは、作品の表現している本質からはずれて行く。
芸術表現はそれぞれの人間の哲学の表現であるとすれば、美学がと言うものが哲学の一つの枠に過ぎない以上、美は芸術作品の一つの要素に過ぎないと言うことになる。美しいという一要素から作品を考えることは、芸術の全体性から見れば歪んだ見方になりかねない。
美をどういうものと考えて作品制作をしてゆく必要があるのか。美というもの捉え方を広げなければならないと思う。真善美という言葉がある。ギリシャ哲学に起源がある考え方で、そこでの美の捉え方は、美しいこと、良いこと、価値のあること、調和していることを意味している。
哲学で考える美とはかなり総合的な美の見方と言うことになる。その社会が追究する方向を美と考える。その意味で美はかなり幅広い考え方と言える。最近になって、美を軽視しないで、美についてもう一度洗い直してみたいと考えるようになった。
それは動禅を進めていて、一番良い動きをしたいと考えるようになったからだ。一番健康に良い動きでありたいと思っている。一番心が洗われる動きでありたいと考えている。自分というものが無の状態には入れる動きを目標にして行っている。
すると一番分りやすいことは美しい動きなのだ。自分がどれほど無様に動いているのかは、よく分かっていることなのだが、それでも少しでも美しい動きにしようと考えると、だんだん無の状態に近づくことが多くなってきたのだ。この辺りに美しい動きと自分が考えるものに何かがあると気付いた。
眼を閉じて行っているので、自分の動きが実際どれほどのものかは分からない。欧州少林寺八段錦と言うユーチューブの動画がある。この動画を見ると美しい動きというものが分かる。なるほどと思うところが沢山出てくる。自分に出来るわけではないと言うことも分かるが、一つの目標として時々見る。
私が行っている八段錦とはかなり異なる動作である。動きの美しさというものに込められてゆく精神の集中というものがよく分かる。この動画とは逆に力を抜こうとしている。力んでいたのでは、無には成れない。どれだけゆるくゆっくりと動けるかを重視している。つまりそれが美しいと思う動きなのだ。
膝の曲げ方。その膝に乗る腰の位置。そして上半身の姿勢。よほどの鍛練を積まなければ出来ない動きである。できる限りゆっくりと動く。そして呼吸を深く行う。特に呼吸を止めることを重視している。呼気吸気は深くゆっくりと考えれば良いのだが、同呼吸を止めるかも呼吸を考える植えでは重要である。
美し動きと考えるて行くうちに、美しい絵というものもあるのではないかと気付いた。今まで美しいと言うことを毛嫌いしてきたわけだが、自分なりの絵の持つ美というものも、考える必要があると思うようになった。これからの絵の課題だ。