地方移住傾向は終わった。

   



 麦畑、ニシノカオリである。早くも穂が出てきた。どうも12月30日という播き時期が間違っているような気がする。それにしても2ヶ月で穂が出てしまうのでは、収穫は期待できないかも知れない。

 コロナでの地方移住傾向は早々と終わった。ますますの都市集中が進んでいる。東京圏への集中は相変わらずのようだ。普通の暮らしをしたいと考えてれば、地方はどんどん暮らしにくくなるので都会へ出る。と言っても普通の暮らしが日本ではどんどん減少している。

 階層化が進んでいるからだ。富裕層とそれに使われるものに二分してきている。拝金主義の経済だから、設けるための労働者は大いに求められているが、あくまで労働者は金儲けの手段の範囲だ。それでもそれが安定した暮らしと考える人が多数派なのだろう。

 この再燃した都市集中は、過疎化した地方での自給自足の暮らしはいよいよやりやすくなっていると言うことでもある。自分らしい生き方を探そうとするものには悪くない傾向である。ただ、地方の過疎地域のインフラはますます失われて行くのだろうから、この天よほどの覚悟が必要である。

 この地方消滅現象は、得に地方の山間部の消滅である。廃村集落という物が日本のいたるところにあるが、地方の山間部では普通の暮らしを考える人には、暮らし続けたくとも、暮らせなくなっているのだ。隣の家まで2キロ余りの自動車道で繋がっているとしても、この道を誰かが整備してくれるわけではない。

 自分で草刈りを年何回かやるほかない。自分達と言える間はまだやれるかも知れないが、一人で2キロの草刈りを続けるのは可能だろうか。道は整備をしていなければ崩れて通れなくなる。車が通れなければ、まず暮らせ無い。当たり前の事だ。

 そうした道の繋がっていない場所で暮らすということは、ちょっとしたケガや軽い病気でも、死ななければならないということになる。その覚悟がある人なら、そういうことは乗り越えられることかもしれないが、誰しも必ず年を取る。何歳までそうした暮らしができるだろうか。

 普通の人にはそれは無理なことだろう。子供が居れば、学校に通わなくてはならないのだから、なおさら無理なことになる。自分が死ぬ覚悟はまだしも、子供の死ぬことまで勝手に受け入れるという事はできない。だから多くの集落が消滅を続けているのだ。

 日本中にそうした場所が急速に増加している。この先10年で人口が半減する自治体という物が恐ろしいほどにあるのだ。これが自治体単位で起きていると言うことは、部落単位で考えれば、部落消滅は年何百とある事になる。北海道が一番すごい状態のようだ。

 確かに北海道では、自給自足はきつい。暖かい場所を選んだ方が楽だ。その温かい石垣島でも小学校がなくなる地域がある。人口はわずかずつだが増えて、人が中心部に集まる。中心市街地は広がっている。農地を宅地に転用する案が出ている。石垣島の中心部は実に暮らしやすいので、引っ越した私が満足している。

 それでものぼたん農園のある、崎枝では人が増えている。それは日本一美しい場所だから特別である。車の運転が自由に出来れば、崎枝はなかなかいい。週に2回生協の配送車が来ると言われていた。週一で買い出しをするから大きい冷蔵庫が必要ともいわれていた。

 小中学校もある。道路も立派なものがあり、草刈りなど必要ない。それでも時々草刈りや掃除をされている人を見る。たぶん人が出てやる日があるのだろう。のぼたん農園でも出た方が良いのかも知れない。少ない人数で地域を維持すると言うことが、大変なことだと言うことはよくよく分かっている。

 なぜ地方暮らしが出来ないかを考えるべきだ。「多様な仕事がない。優れた病院がない。大学がない。」この3つの必要条件が無ければ暮らせないと言う人が多数派ということになる。地方再生というのであれば、この3つを何とかしなければならない。

 しかしそうした期待は政府にしても無駄だ。人口減少を止めることが出来ないのは、人間という生き物の集団としての本能的な流れなのだ。生活が豊かになりながらも、息苦しい何かに支配されたような状態では、人間は希望を失って行く。希望の感じられない社会では人口が減少するのは当然だろう。

 豊かでありながら、不幸な時代。もちろん豊かさと言っても比較の問題で、スガ氏が言い放った、「生活保護がある」という豊かさである。年金を3万8千円もらい、生活保護費を4万1千円もらい、何とかギリギリに都会で電気も付けずに暮らしている豊かさである。

 私の子供の頃同級生の弟が栄養失調で死んだことがあった。小学校の同級生で新聞配達で家計を支えていた人は一人ではなかった。あの頃に競べれば随分と豊かな社会になっている。それでも何か失われたものがあると言う、喪失感がある。それは希望ではないだろうか。頑張れば何とかなるという空気だ。

 日本が停滞社会になったと言うことを認めることが出来ないのは、豊かになったという成功体験を引きずって居るからだろう。まだ団塊の世代は巌ばっえよくなってきたと言う実感がある。60代ぐらいの人でも、まだ暮
らしが良くなったという感触はあるのだろう。正直その辺は想像がおかしいかも知れない。

 地方の中心都市以外は過疎化して行く。これはますます深刻化して行く。それは産業の構造が、一次産業から、3次産業に変わったからなのだから、大きく変わることは無い。その上過疎地域は政治的にも力を失うだろうから、政策的にも無視されて行くと考えなければならない。

 そういう前提で私は、石垣島を選んだ。離島でありながら、人口が増加している島なのだ。宮古島もそうだ。子供達が街で遊んでいる島なのだ。この情景を見るだけで、喜びが湧いてくる。子供は希望を感じさせる。小田原では子供を見かけると言うこと自体が希だった。

 南の青い海と緑の島という観光の要素があるからだ。そして、自給生活の可能な島というもう一つの要素がある。これが北海道の離島であれば、到底無理だろう。過疎地域で自給生活をする。その時重要なことは一人の自給を、みんなの自給につなげることだと考えている。

 一人の自給の半分の労力でみんなの自給は可能である。一人の自給では自給そのものが目的になってしまうが、みんなの自給であれば、かなり余裕のある暮らしが考えられる。他の仕事をやりながらの自給が可能になる。食糧自給が出来ていればその仕事も、自分らしいものやれるだろう。

 

 - 石垣島