東京オリンピックが終わって

   


 水の来たシーラ原田んぼである。今度この風景を描いてみたいと考えている。水が田んぼに来る緊張感。耕作のいよいよ始まる緊張感。期待感。代掻きをして、来年まで待つ田んぼが多い。この環境が水鳥たちにとって、とても良いのだと思う。
 ただこういう風景は写真でもう十分というところがある。絵はこういうものを描くものではないと言う意識。そう思いながら、この一週間この風景を見ながら、他の絵を描いている。

 東京オリンピックが終わった。無観客という特別のオリンピックが終わった。テレビ観戦している分には、観客が居ようが居まいが変わることは無かった。選手にはどうだったのだろう。応援があると、選手の力が発揮されて地元が有利だと言うことを言う人が居たが、そんなことは無かったようだ。

 何しろ、日本選手が58個ものメダルを獲得したのだ。観客がいないでも頑張る人は頑張れたのだろう。むしろ、観客がいなかったために、本来の力が出せた人が居たと考えてもいいように思う。開催された事への感謝を語る選手が多かったのも印象的である。

 日本選手はオリンピック開催反対の70%の世論の中でオリンピックの開催を願った。苦しかったことだろう。この引き裂かれるような現実の中で全力を出すことができなかった人も多かったのかもしれない。選手は少しも悪くない。選手の頑張りで大いに励まされた。日本人のどん底での頑張りのすごさをテレビで見せて貰った。

 見られていると言うことはなかなか難しいことである。無観客と言うことは、選手にとっては海外で開かれたオリンピックに近かったのだろうか。期待されていると言う気持ちはある。しかし、それが目の前の観衆という現実では無い。

 描いた絵が見られると言うことは、描くと言うことに、どんな影響を与えるのだろうか。日々描いていてもまったく見せなかったという人が居る。描いていることすら人に見せなかったという人が居る。ゴッホも発表したいと思いながら、発表は出来ないまま描いていた。

 会津の牧師さんで発表しなかった人が居る。名前を今思い出せないが、一枚絵を持っている。無くなられてから、渋谷にあったゆうじん画廊で遺作展が企画された。画廊のオナーが会津の人で、そういう不思議な絵画あると言うので遺作展をされたのだ。

 なかなかおもしろい絵だった。夜の絵だけだ。風景画なのだが、夜の絵だけである。昼前を描いていれば、人に見られてしまうので、夜になるとこっそり町に絵を描きに出たらしい。だから明かりのある街灯の下で遠くから絵を描いたのだ。

 その人にとって絵は何だったのかと思う。見せない前提で描いているのだから、表現で無いことは確かだ。自分の楽しみであったとすれば、ずいぶんくらい趣味である。たぶん趣味では無い。やむにやまれる思いが絵にある。夜の町の風景ばかりなのだから、どこか陰惨な感じがする。

 私の持っている絵は、夜の街角で、集まってたき火を囲んでいる路上生活者の絵である。牧師さんが路上生活者を遠くから見て、隠れて絵に描いている。この状況は興味深いものはあるが、どう考えて絵を描いていたのかは、絵を見ると分かる。

 突き放した感じである。対象としてみている。路上生活者だとは分かる。特別な感情は無いようだ。絵を描くと言うことが、外科医が物として手術をしているような感触である。そう真っ暗な空から雪が舞っている。これは隠れて描くしかないような絵だ。描いているところが見つかれば、ただではすまないだろう。

 そんな絵を描いて、何百枚も仕舞ったまま死んでしまった水彩画家もいる。私はその人の絵を見て、この絵は絵描きのひとりだと思って購入した。その絵は写真を撮って公開しても良いのだが、そうしたことは望まない人だった気がするので、公開はしない。私が死んだときに失われるのかもしれない。

 水彩画日曜展示を続けている。見られるという意味を考えてのことだ。人との交流を絶ってしまい、絵がおかしな物になってしまった人を知っている。石垣島で絵を描くと言うことの危険はあると思っている。禅の修行もひとりで行ってはダメだと山本老師は言われていた。

 インターネットでの絵の公開は、今可能な公開法だと思っている。日曜展示を始めなければ、描くだけで公開しない状態になる。日記と公開日記が違うように、人に見せる作品という意識で絵を描くことは意味があると考えている。

 私絵画に置いては、表現の位置の置き所は難しい。自分のために描く絵であるが、絵を自分の内的表現にまで食い込ませて行くためには、公開する必要があると考えている。人に見て貰うと言うことが無ければ、方向を誤る。

 ただ、インターネットで公開すると言うことと、画廊や美術館で絵を見て貰うと言うこととは違う。直接見て貰い、意見を聞かせて貰えると言うことは確かに重要である。千日回峰行の行者は京都の町中まで歩く。町を行き交う人が尊い行者として手を合わせる。修行を見せると言うことの必要性。お布施を頂く人間であると言う自覚。托鉢修行。

 人間のための学問と言う
ことが言われる。人間の幸せのための科学。人間社会を滅亡に導くような科学的発見が、ますます増えて行く。科学者が象牙の塔の中で、真理の追究だけしていて良いはずが無い。学問科学の研究の公開。見られていることで、人間は過ちを減らすことが出来るのかもしれない。

 見られていることで正しい方向の努力が出来る。努力は一人ですることではあるが、辛い努力になればなるほど、人間性を失う可能性がある。耐えることだけを身につけるとすれば、間違った努力になる。

 人間のための絵画。人間を豊かにするための絵画。そういうことは直接の方角ではないと思っている。自分の絵画を探求することが、人間のためでもあると言うことだ。そのためには、自己探求の為に描いた作品を何らかの形で、公開してみて貰う必要がある。

 オリンピックは無観客であったが、何らオリンピックの意味を減ずることは無かった。いつも以上の物であった。日本選手のいつも以上の頑張りが見れた。選手には平時の開催が出来なかったことを申し訳なかったと思う。

 

 - 水彩画