絵は日々の遺言のようなもの

   



 禅宗の坊さんには末期 (まつご) に臨んで門弟や後世のためにのこす「偈下」ユイゲと言うものがある。曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師が106歳でご遷化された。遺偈に曰く、
慕古真心 不離叢林( 古の真心を慕い 叢林を離れず )
末後端的 坐断而今( 末後の端的   而今を坐断す )

 何とも言われぬ良いお言葉と思いました。もう死ぬので座禅が出来ないのが残念だというような意味と読ませていただきました。禅宗の坊主たるもの、すべからく正月には偈下と言うものを書き改めなさい、と言うことになっている。確かに祖父も、叔父も亡くなった後、偈下が出てきた。

 私も碌でもないものではあるが、一応の僧籍がある。僧侶のつもりで生きている。やはり偈下と言うほど立派でないにしても、何か残す必要はある。門弟も後生もないのだが、禅に生きて絵を描いている以上偈下としての絵はある。そうでないと、色々教えていただいた、先生方に申し訳が立たない気持ちがある。

 「日々の絶筆」という本を井上有一氏が書いている。井上有一は世界で書を前衛芸術として認めさせた最初の人である。平塚で校長先生をしていた人である。この人には木炭の書もあるし、エンピツのものもある。謄写版のトナーで書いたものもある。書家の枠内の人の字ですごいと思うのはこの人だけだ。

 書というものは、そもそもすごい人がいて、そのすごい人の何かを感じるよすがとしての文字を見たいと言うことだ。その人間存在から教えを受けるものだとおもっている。どこの誰が書いたか分からないような、装飾的に立派な文字などどうでもいい。書家の字はどうも代書屋さんの文字にしか見えない。人間を背景に感じない。

 絵描きには字がすごい人がいる。中川一政が筆頭である。書かれた字や絵もあるが、そもそも人間がすごいのだ。そのすごい人間が字に現われているから感動する。須田克太の字もいい。梅原龍三郎の字も好きだ。絵が好きな人は字も好きなのだろう。

 エライ人のついでに日々の遺言で自分を持ち出して便乗しようというわけではない。100歳まで生きると言いながらも、この歳になると、最後の一枚と言うような立派な覚悟はなくとも、薄々最後の一枚の感触が出てくる。これは自分の終わりをどこかで意識しているので、表われてしまうのだろう。

 このてんが若い頃の絵とは随分違うところだ。これはいままで描き続けて生きてきたと言うことなのだろう。その時思っていることはなんとなく絵に出てきてしまう。それが私絵画という物の必然なのかもしれない。マチスや中川一政氏の絵にはそんな匂いは全くない。こういう人は並ではない別枠の人間なのだろう。

 遺言と最初の題名に書いてしまったのは、遺言というのは、そもそも恨みがましいような物だからだろう。死んだらそれっきりで後のことなどどうでも良いはずなのだが、どうでも良くないと言う名残惜しさで遺言を書くようなものだろう。

 しかし、遺言といってもわたしの絵には意味のあることが描かれているわけでは無い。絵を描いて生きていると言うことが示されているという意味だろう。そう思って自分の絵を見てみると、とうていおぼつかない。逆立ちしても偈下どころではない。

 それでも日々絵が描けると言うことには大満足している。宮崎老師と同じく、座禅がこれで終わりです。というように、画断而今というごとく、これで絵を描くのも今日で終わりですと言うことだけは言える。あしたのジョーではないが、明日はどっちだ、と叫んでみても、今日しかない。

 あしたのジョーは今日を生きるジョーだったから、あしたはどこにも見つけられず燃え尽きて死んだのだ。燃え尽きるまで生きることが出来るかと言うことが、今日だけのジョーだったはずだ。それを得られない物を求め続けるあしたといったのが梶原一騎の感性なのだろう。

 絵を描く日々というのは、今日しかないということを体感させられるものだ。健康体操というものはあしたの健康のための今日の努力、なのだろうが、動禅体操は今日のための今日の体操なのだ。さらに進めば、今日のためのもなくなり、動禅だけのことになる。動禅は動禅のための動禅である。

 何故遺言のことなど考えるかと言えば、絵がこれではまずいからである。これを私だといって終わるわけには行かないという、絵が目の前にあるからだ。もう少しやらなければ、絵を描いているなどと偉そうなことは言えない。

  絵は私という物を越えている。越えているのだが、私である。絵としてすべてでありそれだけであるのは確かなのだが、絵は自分という物のすべてとは言えるのだろうか。少なくとも今のところ言えない。まだやり残している気持ちだ。

 その未練のようなあしたの絵だから遺言なのだろう。あしたも描くはずの絵なのだ。終わっていない絵なのだ。どうにも完成しない絵なのだ。未解決の引きずっている絵だ。それは私自身が結論を先延ばしにして生きているという事なのだろう。

 それはそれで受け入れるしか無いことである。立派な人を真似たところ出それは、模写のような人まねの生き方である。ダメ
出も良いじゃんとそのままを生きることの方を選んで行くつもりだ。絵が終わっていない感があるのは当然のことなのかもしれない。
 ドコモ終わっていない私が、絵だけ終わりになるはずもない。絵も中途半端であることは、当たり前のことなのだろう。絵を無理矢理完成させると言うことが、間違っているのだろう。ここまでしか出来ませんでしたというのも仕方がないのだろう。
 やり尽くした物が終わりまで行けないと言うことであれば、それはそれで仕方がない。良いところで終わりにするのではない。何でもかんでも完成させると言うことでもない。今できるところの限界まで描いていることでなければならない。
 いくらかでも見えていることが、画面に反映していれば、それで十分と言うことかもしれない。今日はそんな風に思って昨日の続きを描いてみることにしよう。

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