マティスを追いかけてージェームズ・モーガン
「マティスを追いかけて 」ジェームズ・モーガンという本を読んだ、マチスを賞賛するアメリカ人がマチスの生涯を過ごしたフランス各地を車で移動しながら、マチスのことを考える、旅行記のようなものである。当然、マチスの生涯について、色々書かれているのだが、どうも私が考えていたものと異なる。
私のマチスの生涯に関する知識は「マティス 画家のノート」二見史郎訳 みすず書房刊からである。この本はマチスが残した様々な文章をつなぎ合わせたような本である。何度も呼んで学んだ本である。この中マティスの生涯もあり、たぶんそれが間違いは無いと思って読んでいる。
ところがマティスを追いかけてに出てくるお話はどうも感触が違う。アメリカ人はマチスをこう見るのかと言うことが、正直絵画の見方が浅薄な物に感じられた。それなら日本人である私はマチスをどのように見ているのだろう。そのことに思いをめぐらしながら読んだ。
アメリカと日本の芸術観が西欧絵画を通して見えてくる。共に学んだわけだが、学び方は随分と異なる。日本人にはどうしても東洋絵画の素養のような物が染みついていて、芸術とは何かというような根のところが違っている。その意味ではアメリカ人の方が無垢で正しく見ているのかもしれない。
最初から一番重要なことが出てくるので、私も絵で一番重要だと考えている、絵を描く上での「みるの意味」を考えてみる。見ると言うことは見側の見方が全体性をとらえない限り、見えないと言うことだと思っている。目に映っている表層の背後に、確立された世界観がとらえられたときに見えたと言うことを感得したと考えている。
マチスは観ると言うことの意味を、2重3重構造を把握して意味をとらえようとしている。言葉は大分違うが、マチスは観ると言うことと、描かれる絵を合一させようとした。というような解釈をモーガン氏はしている。このみるの解釈はみるをやはり絵を描くすべての根源だと感じているものとして、はっきり不十分な解釈だと思う。
不十分以上に、言葉の置き換え方が間違っている。西洋絵画が見ると言うことにかけたのはモネに始まる。それまでの見るはあくまで、人間共通に写真のように見えると言うことが前提である。それを科学的な見えるだと考えていたのだろう。
しかし、人間が見というのはそういう物ではないということを、やっと西洋絵画はモネになって気付いたと私には見える。モネはそれを東洋の絵画から学んだと考えていい。東洋の絵画はそもそも、科学的に見えると言うこを絵画における見るとは関係づけていないのだ。だから、東洋画に風景の写生と言うことはそもそも無い。
東洋絵画ではそもそも石を見てそれに全宇宙を見ようとするものである。初めから極めて深遠な世界観を絵画として表現するものなのだ。人間が見ると言うことが、ひとりひとり異なることぐらい、東洋では何千前から当たり前の受け止め方である。その違いの中から、より深い世界観のようなものを求めて、画道として自らを高めること意外に見ることは出来ないと考えた。
西洋絵画は風景写真という物がそもそも存在した後に、自然という物を絵画の対象として扱うようになる。それまではあくまで神や神の子である人間を描くと言うことが、絵画の役割の方角である。西洋絵画もやっと東洋絵画の意味を理解したのは自然を描くようになってからのことだ。
そして、印象派が外光というものにこだわり続けた。東洋では光というようなものはあくまで存在を照らしているものであり、移ろうものである。実在するものは光がなくとも実存する。この存在把握の仕方で岩を見て、描こうととしている。光はあくまで材料の一つに過ぎない。
そして、19世紀になって西洋人が絵画によって、世界を見と言うことがどういうものかを理解したくる。そしてその結果出てき人がマチスだと私は考えている。
マチスが画期的なことは、見ると言うことを逆転させたことである。画面の上でどのように色と形を置けば、その絵を見る人間が、それをどう見るのかという、見る側からの視点を絵画に持ち込んだ。絵画の主観から客観存在への転換。
マチスは見ると言うよりも、どう絵画が見えるのかの方に意識があると思っている。画面が何故そのように見えるのかと言うことを、色と形で探り出そうとしている。マチス自身が見ているということから始まってはいるのだが、それ以上に画面に置かれた色と形と線を人間がどう見るのかを、探っている。
マチスはいわゆる技術的なものを取り除いて、問題を分かりやすくした。分りやすく整理しない限り、画面が何故そう見えるかを整理することは出来ないからだ。曖昧な色彩も使わない。最終的には塗られた色紙を切り抜き配置することで、絵を作ろうとする。
そこまで、余分な物を切り捨てた上で、それでも絵画が存在するかを確かめている。何故、青い色をそのように切り抜き置くと、女性像になるのかを要素をどんどん減らしながら、探っている。マティスのデッサンには3種類あるのだが、これもどこまで要素を減らして行きながら、絵画の成立を探っている。
ヨーロッパの美術館では良く、マチスのやったことをワークショップで小さな子供たちがやっている。青い紙を切り抜くことで、子供でもマチスと近いものが作れる。この体験を通して、創造と言うことを体験しようとしているのだろう。
それはまさにマチスが目指したものではあるが、デザインとどこで食い違って行くのかが、私自身の課題である。人間としての哲学を絵画と表現するときに、マチスほど要素を減らしてしまえば、私の世界観とは言えないものになる。これは20世紀の世界中の画家が行き詰まった罠のような課題なのではないだろうか。
マチスのように描ければと思ったところで、マチス流でどこにもマチスを超えた人はいない。マチスは絵画の最後の結論のような画家ではないか。そして多くのマチス以降の画家は、マチスの罠にはまり、デザイン画家になってしまう。
とするとやはり、マチスを超えるためには画面からスタートするのではなく、自分自身の目から始める他にないのではないか。以上のような考え方が、私が30才頃にマチスにとらわれながら考えていたことだ。その考えは今も大きくは変わらないが、未だ自分の目には至っていない。
自分が見ていると言うことは、世界観に基づき見ていると言うことである。その世界考えになるだけのものでなければ、見えたところで始まらない。名人デンではないが、この竹の先にに動物の毛がまとめてあるものは一体何に使うものですかという位にならなければならないというのが、東洋の言う名人の見えるという世界である。
すべてを理解した上で、すべてを獲得した上で、すべてを捨て去り表われてくるようなもの。そういう人間が描くのではあるが、描いたというより出現したような世界。終わりのあるような世界ではないのかもしれない。いつも思うのは、本当に見えれば、指さすだけでいいといった岡本太郎の言葉である。
まだ見えていないという苦しみである。ただ、絵が進むとそれだけ見える世界も進んでいるようなのだ。絵が描けるようになると言うことは世界が少しだけ見えるようになると言うことでもある。そのことには少し励まされる。やり尽くしてやるぞと諦めないで続けられる。
日々良くても悪くても、一枚描いて行く。そのことで少しでも前に進めるのであれば、10年すれば、少し自分の人間もましになっているのかもしれない。そして、30年すれば、絵らしきものが出来てくる可能性はある。そう思うと、妙な元気が出てきて頑張れる。
マチスの晩年は眼が随分衰えたらしい。体も衰え、車椅子で描いている。長い棒の先に筆を縛り、描いている。ともかく長生きして描かなければ、いままでやってきた甲斐がない。ここで終わりならお笑いぐさである。幸い、どこといって大病はない。緑内障は片目は進んでいるが、左目の方は何とかなっている。30年何とか見える可能性もないわけではない。
アメリカのマチスの解釈に刺激をされた。誰もが自分のマチスをやればいいだけのことだ。すべては描いた絵が結果する。それが絵の良い所である。わたしがどんなにえらそうな事を書こうが、絵は一目瞭然である。