動禅体操「歩行禅」体操について
歩くことで人間は人間になった。歩くことで手が自由になり、手先であれこれ扱えるようになる。手の指を使うと言うことで、脳の仕組みが大きく変化する。手の微妙な動きはスーパーコンピューターでも、追いつかないほどの速度と言われている。
人間が考える葦としての人間になれたのは、手を自由にした歩くという動作に遠因があった。歩くことは体操の中でも最も重要な動きだと思う。そして、禅を考える上でも歩くという動作が重要だと思う。それはいわば、千日回峰行である。
日本の古い仏教は修験道と入り交じっている。仏教が538年に渡来する以前に存在した日本の信仰の中に、修験道がある。山の中で修行を積んで神通力を得るというようなものだ。こうした日本古来より存在した修験道と仏教が出会い、千日回峰行のような修行が生まれたのだろう。
日本に仏教が来た時代は、中国では達磨大師が禅を伝えた時代である。達磨大師の禅宗は、インドのヨガ的な要素を含んでいた物と考えていい。達磨大師の禅は、只管打坐の禅の世界とは少し違っていた。少林寺に残る拳法のようなもにも繋がる、体を動かす物でなかったのかと思う。
中国には仏教より古い時代から老荘思想という物が存在した。老荘思想がヨガ的な達磨大師の禅を老荘的な宗教に変えて行った。道元禅師が1223年中国に行くころには、700年間もの長い期間中国で熟成され、中国課した禅宗を学ぶことになる。景徳禅寺にて住持如浄禅師から一生参学の大事を得る。とある。
禅も日本に渡り、長い年月を経て日本的な物に変わったものなのだろう。特に曹洞宗の只管打坐の姿は、禅の思想の究極の形だと思う。しかし、この徹底した物は、余りに高度な修行を要求しているが為に、これは言い訳であるが私には出来る物ではなかった。
座禅よりも千日回峰行の方が肉体的には困難なものではあるが、これならマラソン選手ならほとんどの人が実戦しているレベルのものだ。座禅の困難なところはただただ何も求めず、座るだけという余りに寄る辺ないところである。この何も求めない、無意味さに耐えられないところがあった。これは自分の至らなさだと痛感する。
宗教でありながら、経典から学ぶとか、道元の著作から学ぶと言うことすら、避けられる傾向があり、奨励はされないのだ。正法眼蔵を学んでその解釈など行えば、頭だけのえせ坊主の烙印が下される。こういう所が座禅という物に入りきれない結果になった。と言う言い訳である。
そして、70才になって、ダメでもいいジャンという気持ちで、動禅に取り組むことになった。調度このぐらいのレベルが乞食禅向きである。ただ動禅ではおこがましいので、あくまで動禅体操である。動禅体操を育んでくれたのはコロナ襲来の御陰である。
今のところ動禅体操は、スワイショウ、八段錦、24式太極拳、蹴り上げ体操、腹筋運動、体幹運動これは魚体操、そして放下体操と構成している。一通りで50分ほどである。すべて自己流なので、人様には参考にもならない体操である。100歳まで生きて、すばらしい絵を描いていた時には、参考になるが、そうでなければ参考にはしない方が良い。
もう一つが歩行禅である。歩行禅体操は23分ほどを午前1回。午後1回行っている。心身の健康のためである。実はついもう少し長く行ってしまう。頑張らないようにと思いながらも、少し、余分に頑張ってしまう。乞食禅である。
1キロ前後の坂道で行う。高度差が65メートル。出来れば坂道の中腹の500メートル地点から始めるまず下り坂を歩き始める。そして500メートル下り終わったら、逆行して一キロを登る。そして最後に500メートルをくだって終わる。
最初の下りは少し当たりを見ながら体を慣らして今日はどのくらい歩けるかと、身体の調整をしながら速度を決めて進む。そして登りに入れば、限界に近い速度で歩く。一キロ登り切れる限度の早さで歩く。途中で速度は変えないで、我慢して登って行く。
心拍数は181と出た日もあるが、140ぐらいの日が多い。この時に脳は反応だけになり、思考と言うことは出来ない。呼吸をすることに精一杯になる。この考えることができないと言うことを利用して、考えない感覚を覚える。余計な考えは浮びにくい状態だから、ただ呆然と登るだけの感覚になる。
この感覚を覚えて、どの動禅体操でも歩行禅の心境で行うことが出来るようにする。歩行禅の時には登るという動作と苦しい呼吸に自ずと意識が集中しやすい。その状態をスワイショウの時にも応用する。それが出来るようになると、次に24式の太極拳でも動作と呼吸だけに意識が集中できるようになる。最初は難しいことでも必ず繰り返している内に、呼吸にだけ意識が行くようになってきた。
24式太極拳の最後には、立禅を行うのだが、立禅が座禅に一番近い動作になる。ただ呆然と立っているような状態である。この時には自分が考える最も良い呼吸を行うと言うことに集中する。私の場合は逆腹式呼吸を行う。お腹の中に空気を貯めるような意識の呼吸である。
どれもまだ十分の動禅体操には成ってい
ないのだが、じょじょうに進んでいる感覚がある。前よりはそのことになりきれている。すべては歩行禅から始まった。たぶんランナーズハイという状態に近い物だと思っている。別段幸福感とか楽になるなどと言うことは無いが、ただひたすら歩くという動作に、気持ちが集中されて行く。
ないのだが、じょじょうに進んでいる感覚がある。前よりはそのことになりきれている。すべては歩行禅から始まった。たぶんランナーズハイという状態に近い物だと思っている。別段幸福感とか楽になるなどと言うことは無いが、ただひたすら歩くという動作に、気持ちが集中されて行く。
この集中した状態が物を考えていない状態に近いかと思う。無念無想というような状態ほど、立派な物ではないが、頭の中が空洞な感じに近くて、物が考えられない。この考えられない状態を登り道を歩くという物理的に作り出し、味わうことで余計なことが頭の中にやたら浮んでくることを抑える訓練が出来る。
私のような俗物には、動禅体操は必要な物だった。これを繰り返している内に、徐々に絵を描いているときの気持ちの置き所が良くなってきた。ただ描いていると言うことになっている時間が多くなった。絵を描いているときは考えていないのは、以前からなのだが良い絵を描こうという意識も無くなった。
良い絵を描こうとか、何かを工夫しようとか言う意識が表われないで、ただ描いている。絵を描く反応だけになっていることが多い。よく分からないが、邪念のような物が浮んでこない、この状態の方が良いと思っている。
まだ動禅体操も経過報告であるが、絵がどうにかなれば、動禅体操が意味があったと言うことになる。それは絵を見れば分かることだ。判断は自分ではしないことに今のところしている。まだまだ途上であることは自覚している。様々な絵が出てきている。