アトリエで絵を見ること。
この写真は昨日の昼間写したものだが、今この文章を描いているときにもこんな感じに見えている。朝まだくらいので、電気を付けてみている。この7枚はこのところ描いたものである。どうにも先の見えない絵もあるし。何とかいいのではないかと思えるものもある。
午前中は写生地に出かけて絵を描く。午後はギャラリーで絵を並べて眺めている。ご飯を食べているときも、酒を飲んでいるときも、朝起きてブログを書くときも見ている。左右の壁にまあ出来ている絵を掛けてある。今描いている絵と並べている。どう進めば良いのかをじっくり見ている。ただ見ているだけに決めている。家で絵を描くことは絶対にしない。
自分の絵を見ると言うことが、絵を描くことと同じくらい重要だと思うからである。アトリエでは絵は描かないという考え方はたぶん水彩に変わって以来だから、30年以上になる。この場で絵を描き始めれば、自分の絵と対峙する事ができなくなる。自分の絵と対峙することがなければ、自分の絵に至ることはできないと考えている。
ギャラリーの写真であるが、天窓からの光だけで充分明るく見える。ライトの明かりよりも見やすい。色もよく分かる。調子の微妙な違いや透明感も、鮮明に見える。たぶん自分の絵が一番見やすいギャラリーだと思う。いつかここでアトリエ展をやるつもりで居る。死んだ後、展示室になることを考えるが、これは難しいことのような気はする。
四六時中絵を見ている。この時に翌日やることのほとんどは決まっている。やって見る前にやり終えた画面を十分の想像する。考えたことをやってみて、どうだったかその結果の違いをよく考えてみる。想像していたとおりになることの方が少ない。
描き出せば、前日ギャラリーで考えていたことはすぐに終わる。充分考えたことなので、そのこと自体は考えた上のことだから、確かにそうなる。問題はそれが自分に近づいたことになったのかどうかである。それで又持ち帰り、絵を見ていることになる。
時には描き始めると、手が動き始めて、その後はただただ画面に従い、進めていることもままある。多くの場合、一枚では終わらない。ギャラリーで3枚くらいはやりたくなっている絵がでてくるのでそれをやる。間違っているのかもしれないと、不安になることもある。不安でも出来ることをやっている。
そして又その絵をギャラリーに並べる。並べてすごく良かったな、と思うことも無いわけではない。もちろんひどいこともままある。描いているときにはこれで良いかどうかはほとんど分からない。どうもそうした判断力が失われて、ただ手が動いて絵を描いている。自分の意識を越えてそうなってしまうと言うような状態なので、描きながら判断は出来ない。
そして、絵を見ている。描いているときは画面まで1メートルくらいだ。眺めているときは6,7メートル離れている。この距離の影響が大きいように思う。絵を客観視できる。自分が描いたものであるとか、これから又描くものという気持ちは捨てている。
何がどのように表現されているのか、あるいは何もないのか。できるだけ他人の作品を見るようなつもりで、見るようにしている。他人が描いたものだとすると、大抵は何を描いているのか見えてこない。まだまだ不十分と言うことだろう。一体誰がどう描いたのだろうというような気分で見ている。
自分の絵だと思うと、惚れ込んでしまい描いている。ある程度わかっているから、そう思ってみてしまい、本当の客観視は出来ない。他人の冷たい目線で絵を見るようにする。その絵にある良さも探すようにしている。
全体で中判全紙の絵が13点掛けることが出来る。ここは動禅を行う場所でもある。まあ、いわば禅堂でもある。右側のテーブルが、篆刻と書を書く場所である。思いついたときにすぐ出来るようにしてある。最近は絵にとらわれていて、他のことはやっていない。
アトリエカーで出かけるようになって、実に具合良く絵が描ける。絵を描く流れが安定した。アトリエカーで午後も描いている日もある。こう言う日は絵が一気に進むが、後に疲労が残る。1時間30分絵を描いたら歩く禅を25分。1時間30分又描く。昼ご飯を食べて、又午後も同じことを繰返し、4時30分頃家に帰る。
できるだけ絵を描く間に歩く禅を入れることにしている。絵にのめり込みすぎるのもどうかと思うからである。これほど絵を描きたくなることが続くのは珍しいことである。フランスにいた頃と同じくらいである。焦りというか不安に駆られて、描いているような感じだ。
若い頃は何とかいっぱしになろうと焦って描いていた。そして今は死ぬ前にやりきりたいと言う死に焦りということなのだろう。コロナ時代の到来と言うこともある。人が死ぬと言うことを、教えてくれている。怖いというようなことよりも、終わりから今のことを考えている
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最近絵にサインは入れない。出来たと思う絵でもサインは入れない。私の絵であると言うことが分かるように絵の裏には描いた年月と画題を入れている。しかし表面にサインを入れるというのはやらない。何か、サインを入れると商品絵画になったような気がするからだ。
絵は遠からず精巧な模造品が可能になる。ゴッホの絵も、中川一政氏の絵も、私の絵も、同列に並べられるようになる。その時に人間が必要とする絵ははっきりとする。誰が描いたとか、そういう物語はさしたる意味がなくなる。希少価値という物もなくなる。
もし人間にとって絵画という物がかけがえのないものであるならば、必要な物だけが残ることになる。私の絵が残るような絵だと言うことではない。誰でもが描いている絵はそういう未来の選別の前で描いていると言うことだ。このように50年前に考えていた。その予想は近づいた。
そういう時代は徐々に近づいている。それがたとえ100年先のことでも、たいした違いはない。人間が作り出した物で、必要なものであれば、必ずうり二つの複製ができると言うことになる。ボッチセェリーと宗達のどちらを見たいか、というような時代が来る。