風景を描くと言うこと
中判全紙の縦型の絵をアトリエカーで描いているところ。描いているのは石垣島なのだが、描き始めた場所は小田原の欠ノ上の田んぼだ。田植えが終わった頃いつも描いている。同じ構図で、10枚ぐらいは描いているのかと思う。
田んぼは絵を描くようにやる。絵は田んぼを耕すように描く。こう思っている。田んぼをやって、絵を描いている人ならばこの感覚は少し分かってもらえるかもしれない。田んぼは楽しく。絵は生産的にと言うようなことになるかもしれない。
石垣島の田んぼ風景を見ながら、小田原で描き始めた絵のつづきを描いている。描きにくいというようなことは無い。では風景を見ないで描けるのかというと、そういう訳でもない。空間の感じや色調の様子光の変化など風景を見ていないと、確認出来ないことが起こるので、案外に前にある風景で確認しながらになる。
アトリエで描くことも出来そうなものなのだが、それがうまくは出来ない。描く絵が自分に近づいて行かない。自分が見ている感じが無くなる。作っているようないわゆる絵画的な絵になる。自分にしか分かりづらいところかもしれない。
私が見ているという現実感がなくなってしまう。その当たりが一番大事にしているところなので、風景を見ながら描くと決めている。思い込みなのかもしれないが、絵を描くこと自体が思い込みのようなものだから仕方がない。
風景を描く時そこにある景色を紙の上に移しているわけではない。自分が世界をこのように見ていると言うことを示すように、画面を作っている。画面は写生していると言うより、新たに構築しているようだ。
特別に意識してそうしているわけではないが、見えたものを面、線、点に置き換えている。そして色彩で自分の描きたい世界を作り出そうとしている。この置き換え方や色彩の組み合わせによる画面に現われてくる、印象が自分が良しと出来るかどうかということになる。
こうした作業は同じ場所を繰返し描くことで、徐々に煮詰まってくる。始めてその場所を描いてみて自分の絵になると言うことはない。同じ場所を何十枚か描いて、徐々に見ている現実の風景から、自分の絵の世界に煮詰まって行くようだ。
伊豆下田に須崎という場所がある。ここの丘の上に広い庭を畑にしているお宅がある。この家の庭を何度も描かしていただいた。畑の庭である。どこにでもあるような畑なのだが、何か特別なものがある。それで何度も描きたくなる。
その畑の庭のこともあって、下田には良く通った。水彩人の講習会も2,3回下田で行ったし、春日部先生とも2度ほど描きに行った。小田原から行くのであれば、朝早く家を出れば、午前中から描き始めることが出来る。小田原にも似たような畑があるのだから、そこでも良いとも思うのだが、やはりそこのお宅の庭が良かった。
何度も行って描かせていただくのだから、お土産を持って行くような関係になった。あるとき庭の様子がどこか違うと思えた。ご主人が出てこられたので、伺うとおばあさんが入院されたのだそうだ。その庭はその家の幸せが表われていたのではないかと思う。それが、不安なことが起きて庭の表情が変わってしまった。
それはもちろん具体的には庭の世話をしていたおばあさんが居ないので、庭の手入れが違ったと言うこともあるだろう。作る野菜は西洋野菜が多く、レーキや紫のブロッコリーなどが実に美しいのだ。そういうことはそれほどは変わっていないのだが、絵を描こうとすると何かが違っている。
その後おばあさんは畑の庭を造られなくなった。もうその庭は行ってみても描きたい庭ではなくなってしまった。描きたくなっていたものは見えているものの奥にあるものだと思う。おばあさんが草を抜くのか、刈り取るのか、抜いてそこに置くのか片付けるのか。
そうした心遣いのすべてが庭に現われて居たのだろう。たぶん私が惹きつけられる風景はそういう人間の営みであって、自然との関わりである。自然への心遣いなのかもしれない。人間の営みが、自然への感謝として宿っている場所。
下田にはもう一カ所いつも描く場所がある。それは大浜と言う海水浴場から山の奥に入ったところにある、自給自足と思われる家である。小屋といった方が良いような家なのだが、人はたぶんたまに来て止まる程度だろうと思う。
川沿いの谷間にあるのだが、この周囲が様々に手入れがされている。自然の中に埋もれるように畑がある。良くこの狭い耕地を段々畑にしたと思えるのだが、わずかに日の当たる斜面を余すところなく耕している。下の方には川に張り出したように畑が作られていて、水位が上がれば流されることもあるに違いない畑である。
ここも何度も通ったのだが、もう途切れてしまうかに思えて、畑の手入れは少しもおろそかにされていなかった。森の中に紛れ込むような畑なのだが、実に美しい畑と小屋である。どんな人が作っているのか。お会いしたことはない。案外若い人ではないかと想像しているのだがどうだろうか。
畑には人間が現われてくる。畑の姿に耕している人が想像される。自給のために作っている畑と、販売のために作っている畑ではどこか親密感が違う。だから、庭の畑が好きだ。人間が感じられる畑が美しいと思う。大根の花を咲かせて種取りをしようというような畑が、描きたくなるのだ。
そんな畑を前にしながら絵が描きたいのだと思う。例えば畑を前にして、田んぼを描いているとしても、絵に描来たくなるものは見えてくる。それは小さな庭の畑であっても、延々と続く果樹園であっても変わらなく存在する。
ただそれを描ききることが出来ているかというと、まだまだだと思っている。私はボナールにも中川一政にも成れるわけがない。それでも私にしか見えていないだろう、畑の庭がある。自分の食べるお米を作る田んぼの姿がある。
日本の里山の空気ではないだろうか。石垣島の田んぼの風景には伝統的な日本の里山の感じが残っている。しかもその姿は実に明るい。光に満ちている。色彩に溢れている。すべてから解き放たれるような自由な感覚が生まれる。
その風景に宿っているものの肌触りのようなものを見ている。親密感というようなものだろうか。色彩から来る包み込まれるような感触。ボナールであれば、家庭的な親密感なのだろう。日本の自然と調和する里山の親密な自然観。
拒絶するような絶景と呼ばれるような大げさなものではなく、庭のような自然。人間と対立するような恐ろしい自然ではなく、人間が織り込まれて行くような穏やかな自然の感触。