石垣島で太極拳
石垣島で太極拳をやっている。日曜日の朝7時30分から一時間ほどである。真栄里公園である。誰でも自由に参加している。無料である。2月14日に久しぶりに参加した。10名が集まって太極拳をやった。
2週間コロナ感染者が一人も出ず、石垣島でもそういう集りが出来るようになった。こうして公園でみんなが太極拳をやるようになるといいと思っていた。中国ではどこの公園でも沢山の人が集まって早朝からやっている。
それぞれが、自由に自分たちのやり方でやっていた。別段先生がいる様子もなく、毎朝の習慣に成っていることのようだった。中国には20年くらいの間に3回行ったのだが、変わらない姿だった。いつか、石垣島でも沢山の人普通に太極拳を公園でやっているようになればすばらしいと思っている。
楊名時太極拳 スワイショウ・八段錦・二十四式と行う。実は私が動禅として毎朝行うものとはかなり違っている。菩提達磨が中国に来て伝えたものは今とはかなり違っていたのではないかと思っている。それぞれが自分に合うものをやればいいのだろう。
みんなでやるときには合わせて楊名時太極拳をやっている。家でやるときには目を閉じてやっている。半眼になれないから、目を閉じている。半眼とは目は薄く開けているが、見ていない状態である。これは座禅を行うときの眼の状態で、禅宗の僧侶として学んだものだ。眼には視覚として写っているが、意識としては見ていない状態である。
眼を開ければ、眼に頼ってしまう。眼に頼らないで自分の身体のバランスを保てないかと思っている。太極拳の重心移動を眼に頼らないで出来ないものかというのが、現状の課題である。人が見たらおかしな動きに違いないのだろうが、自分のためにやっている。
緑内障のためにすこしづつ視野が狭まっている。見えなくなったとしても身体のバランスが崩れないよう、動ければと思っている。眼にできるだけ頼らない練習でもある。目で見ないでも絵が描けるというわけにはいかないのだろう。
座禅の心境のまま動くことが動禅のつもりだ。何故動禅をやるかと言えば、座禅が出来ないからである。考案禅というものが臨済宗では行われる。考案に集中することで雑念を払うと言うことだろう。動禅は動きや呼吸に意識を集中することで禅の心境に入ると言うことではないかと考えている。
私の考える動禅は勝手なものだ。自分に良ければそれでいいと思っている。絵を描くことが私の本心である。絵を描く時の心境がより深くなるための動禅である。毎朝動禅を行うように成って、絵が一歩進んだと言えるになりたい。
乞食禅である。居直って絵にしがみついている。だから絵がダメだと言われるのかもしれないが、自分流で私というものを突き詰めてみる覚悟である。結果が出るためにはあと28年かかるつもりである。100歳までこうして絵を描いてみたいという欲である。
結局の所絵は何のごまかしもなく事実として目の前にある。このブログにも毎日曜日に展示している、これだけの絵である。これだけである自分というものを突き詰めるほかない。そのための太極拳だと思っている。
一人でやる動禅ではダメだと思っている。絵も一人では狂う。だから水彩人に参加している。みんなでやると言うことは心の健康である。一人で座禅をすることは難しい。みんなでやるのは楽しく続く。多くの人が、集まって真栄里公園で太極拳が楽しくできるといい。
ユーチューブで探すと、様々な人が太極拳24式を載せている。中国の人のもあるし、日本の人のものもある。楊名時先生の家にあるビデオとも全体に違う。現在は、楊先生のお孫さんの形が指導の中心になっているようだ。
すこしづつ違うってくるのは当然のことで、その人その人の動きがあるのだろう。1500年前の達磨大師が行ったかもしれない、八段錦のDVDがあればきっと大分違う動きではないだろうか。それぞれが自分の動きをやればいいのではないかと思う。
楊先生の太極拳は気の動きというものを重視していたようだ。私にはそれは分からないので、呼吸を中心に考えている。ただ、みんなでやるときには動きを合わせると言うことも必要なことなので、指導者に併せてやるのが良いのだろう。