アトリエカーは待庵の茶室

   



 アトリエカーは茶室のような気がしてきた。禅堂と言うより、戦場に作ったと言われる茶室である。待庵は二畳の正方形の広さと言うが、アトリエカーも長方形だが、ほぼ二畳くらいの面積だろう。絵を描くにはちょうど良い大きさである。自分を集中させて行くためには最善の空間である。

 待庵は千利休の佗茶の空間である。国宝で千利休の作った茶室で唯一残っている茶室である。一間一間の広さで、天井の高さも一間、180センチ角の真四角な空間。方寸というが、方間と言うことなのだろうか。余計なものは何も無い空間である。床の間は小さく土壁だけである。余分な装飾は無い、狭い空間。これが精神が開放される空間と利休はした。

 私のたどり着いたアトリエカーも待庵によく似ている。待庵を真似たわけでは無いが、絵を描きやすい空間を考えた結論が、待庵に似ていたのだ。壁が土壁で素朴な待庵。壁が白いデコラ張りで無味乾燥な車画堂。絵を描く場所は余り雰囲気などない方が良い。

 実用一辺倒の方が絵が描きやすい。最初は白い結城紬の布でも張ろうかと思ったのだが、むしろ白のデコラ張りで丁度良いようだ。水彩画の微妙な調子を感じるためには、回りに複雑な土壁のような調子などない方が良いのかもしれない。

 必要最小限こそ無限の宇宙空間に通ずる。人はただ広がる原野では安らかに眠ることが出来ない。山際の窪地とか、土の中の穴ぼこのような閉じた空間の方が安心して眠ることが出来る。野外で絵を描くことは余り得意では無い。心を集中して行くことが出来ない。山椒魚が穴の中で悟りを開いたように、閉じた小さな空間が良い。

 車画堂で一番良いことは確認するために風景を見れると言うことだ。絵を描いていて、風景を見ることは実際には滅多に無いと思う。別段風景を写しているわけでは無いから、見る必要は無いとも言える。しかし、時々見ないわけにも行かない。

 描いている絵と、観ている世界との関係を確認したくなる。この時に茶室から眺めると言うことが具合が良い。自分の穴蔵から、世界をのぞく。そこで始めて自分の絵を描くことが出来る。閉じた空間の中でこそ自分のことを考えやすいのでは無いだろうか。

 こういうことはその人それぞれであろう。中川一政氏は野外の風の吹きさらす場所で、長時間絵を描いていたようだ。熊谷守一氏は自分の家の穴ぼこのような庭の底で虫を眺めて絵を描いた。ボナールは外で絵を描くことは無かったという。

 私の場合は車画堂の中がちょうど良いのだが、これは絵が描けた時の話で、現状では余り偉そうなことは言えない。ヤドカリは自分の身体に合う貝殻を見つけて、引っ越しをする。蟹は甲羅に似せて穴を掘るといわれる。千利休には待庵が丁度なのだろう。菩提達磨大師は穴の中で9年間座っていた。

 国宝の小屋が丁度という千利休はさすがであるが、車画堂も馬鹿にはならない。日本の最高の車である軽トラの上に乗っている。これは農業好きの満足である。窓付きの冷蔵車によく似た車画堂である。この器が丁度であるとしたら、私なりにたいしたものだ。

 茶室は入口が狭い。人間の平等を表していると言う。刀を差した人が入れないためとよく書かれているが、いかにもこれはこじつけだと思う。外界からの攻撃への防御の方が大きいだろう。ここは戦場なのだ。入口が狭いことで、心理的な安心を得て、茶の湯に集中ができると言うことだと思う。

 それにしてもお茶を飲むことに命がけというのも不思議なことだ。英国などでもテータイムは暮らしの要らしいが、お茶を飲むことを道にまで高めようという文化はなかなかのものだ。それなら当然絵を描くことも画道と考えてもいいだろう。

 車画堂の入口は登るのに、一段高くなかなか大変である。にじり口ではなくよじり口である。バリアフリーの反対で、ハイバリアの段差である。一段高いから、簡単にアトリエには入れない。入るぞと思わなければ入れないところが、絵を描くにはいいと思う。

 茶室には茶室までの道のりがある。車画堂にはまず運転という手順がある。運転して写生地までの道のりである。何も考えずに運転しながら、絵を描く気持ちに変わって行く。一呼吸あるのは悪くない。車画堂には入ればたちまちに描き始める。

 待庵で茶室に始めて窓が作られたと言われている。出入りできないほど小さい、外の様子が伝わる戦場の窓。アトリエカーは広い窓である。4方に窓がある。光がどこからでも入るようになっている。絵を描くのだから、外光が重要である。絵を描くには外と同じくらい明るくなければならない。直射光があたるのではなく、静かに明るいというのも、世界が解放されていていいと思う。

 お茶を飲むことに命がけになる。命がけの戦場で一杯のお茶に命を見つめる。絵を描くことに全身全霊で向かうためには、自分なりの場所が必要だと思う。私にはそれがアトリエカーの立方体の箱である。この二畳あまりの立方体が道を究める場所になっている。

 ところが、アトリエカーは制作の場所で、絵を見ることは出来ない。アトリエカーの中ではほとんど自分の絵を判断できない。何故かと思うほど、何をやっているのかの判断が難しい。だいたいは碌でもなく見えている。今日もダメかと見えている。車画堂の中でこれで良いと思えたことはまだ無い。

 家のギャラリーに並べる。すると始めて絵のことが見え出す。なかなか完全には分からないのだが、こういうことをやっていたのかと言うことが分かってくる。他の絵と比べるからでは無いだろうか。石垣島のギャラリーには菅野啓介氏の山の絵が一枚だけある。

 今もブログを書きながら、目の前に20点ほどの絵が並んでいる。頭がクラクラする。しかし、すこしづつ明日描く絵のことになってくる。やりたいことが浮んでくる。はっきりはしないのだが、あの絵のつづきを描こうかと言うことは決まってくる。そしてギャラリーで確認した事を車画堂で進めてみる。
 
 車画堂では午前中絵を描いている。8時半から昼までである。時には午後まで描くことがあるが、午後まで描くと、翌日にまで回復できないことがある。午後は絵を見る時間にしたほうが、合理的だと思うようになった。

 一番良い3時間ほどに集中して絵を描く。この時間の質を高めるためには、3時間ぐらいが良いようだ。お茶はどのくらいの時間で飲むのだろう。だいたいの場合それ位い描くとやる事が無くなる。何をやったら良いのかが分からなくなる。それがその日の終わりである。

 - 水彩画