絵は何を描くものなのか。
いよいよ自分の絵を探す時がきている。自分の描くべき絵を見つけなければ、このまま衰えて終わる所まで来た。自分にこびりついた物はほとんど拭い去ることが出来た。自分の見えている物もなんとか描くことが出来るようになった。
絵を描いていれば良い状態にいる。体調もすこぶる良い。これだけ条件がそろって出来ないとすれば、自分という存在に対して、申し訳が立たないだろう。ここから肝心なことが始まると言うことだ。絵を描くことに緊張をする。
ここでやり尽くさなければ、いままで絵を描いてきた甲斐がない。自分の考えていることを絵に出来なければ面白くない。自分という人間を絵に出来なければなにも面白くない。どこまで出来るかは分からないが、これはからは覚悟を決めてそこに向かおうと思う。
絵は分かったことしか描けない。当たり前すぎることなのだが、分からないことを分かったことのように描かないことが当面の目標である。絵は何を描くかでは無く、分かったことをどう描けば、人に伝わるように描けるのかというところで間違う。分かったこととは自分の世界観である。自分がどう日々を生きているかと言うことの絵は証のようなものだろう。
ゴッホは向日葵を描いた。麦畑を描いた。靴を描いた。椅子を描いた。自画像も描いた。いつも描くものは何でもないものなのだが、何でもないものが人を打つのである。描いてある物の意味で打たれるわけではない。その描き方に打たれている。
しかも構成がどうだ。構図がどうだと言うことも無い。ただ正面の中央にそのものを描くだけだ。風景を描いたとしても、空間や構成が特別と言うことも無い。風景をあるがままに描くだけだ。ただ、そのタッチ、筆触と色。これが圧倒的な主張をしている。絵は一つ明確な主張があればそれでいい。
筆触というものが重要だとは常々思ってきた。ゴッホであれば、あの粘るように積み上げられた油彩画の圧力あるタッチである。最近、筆触のことが半分しか理解できていなかったと言うことに気付いた。筆を変えてみて理解できたことである。しばらく、隈取り筆からコリンスキーの水彩筆に変えて描いていた。
その人の描き癖のようなものではまだ筆触という事ではない。その人の語り口のためにはどうしても的確な線や点が必要とされる。だから内容に相応しい線や点になって始めて筆触と言うことになる。筆触は描き癖のような物では無いのだ。
文字を調べると誰が書いたものか分かる。筆跡鑑定というものがある。知らないうちに身についてしまう書き癖のようなものである。ここで言う筆跡じつは絵における筆触とは似て非なるものだと言うことである。表現内容と関係して始めて筆触と言える。
絵も描いている内にその人の描き癖のようなものがどうしても出来てくる。その人が使っている筆や水の量などから、自ずとその人と分かるような筆跡が出来てくる。ところが、この筆跡は筆触とは違うものなのだ。やっと今頃になってその違いに気付いた。描き癖で描くのではなく、その絵で必要な筆跡で絵を描かなければならないことに今更ながらに気付いた。
絵で重要とする筆触は癖のようなものとは関係がない。筆とも関係が無い。その絵の主張に沿ってその線や点で無ければならないというような、筆の跡のことなのだ。中川一政の線の引き方はどうにもそうでなければ、ならないと言う風に洗練されている。その線を引くために筆が選ばれる。それは書で鍛えられたものではないだろうか。
いままではこの癖から来る筆触と、その絵で必要とされる筆跡の違いがもう一つ分かっていなかった。そのために描き癖のようなもので出来て来る感じを自分の絵の感じだと間違って捉えていた。むしろ絵作りをして描いていた頃は意識して絵らしい線を真似ていたに過ぎない。
だから、それは借りてきた筆触で出来ていたとも言える。今思えば随分巧みな筆触で描いている。面白そうな筆触だけ借りてくることは誰にでも出来る。私にも出来た。ところがここで止まっていたために、自分が見たものを見たように表すための筆触というものに近づくことが出来なかった。自分の絵に至るためには、描き癖のような物は邪魔をする物なのだ。
自分の目は借りて来て利用している筆触ほど分かったように見ていないのだ。そのために曖昧で決断が出来ないような筆触の混乱が起きている。この混乱に付き合い、突き詰めない限り、自分の見ているものを的確に表す方法は無い。
筆触が表現内容に適合してきたときにその人の絵になるというようなことである。だから、筆触が人まね風であれば、もうその絵はまがい物になってしまう。筆触はその人の見ているものから生まれなければならない。実にやっかいであり、しかも絵において一番崇高なものである。
井上有一氏の書を見るとまさに筆触が思想になっている。絵の筆触もそうしたものだと思う。風景を描くのであっても、それを構成する筆触は一つの哲学で貫かれていなくては成らない。こう考えているからこうひかれなければならないという必然。
色とも離れては成らない。意味とも離れて成らない。その部分部分で的確な意味をなしていなければならない。哲学によって描かれていれば、自ずとそうなるのだろう。それが絵の魅力そのものだろう。絵画として世界観があるのであれば、的確な筆触で描かれていなければ、気持ちが悪いものになるだろう。
違うというものを取り除いて行けば、その絵画の主張しようという哲学に従った、筆触に統一されて行くものだろう。絵画の場合であれば、塗るところは塗られて、重ねられるところは重ねられ、又筆触が強調されるところは強調されることになる。
絵を描く意味が見えてくると言うことは、自分の描く世界が自分の理解に入ると言うことだろう。だから、今重要なことは分かったことを描くと言うことだ。分かったことを分かるように、意味の的確な線で引くことである。
絵の魅力はここにあるし、これだけに向かえば良いとも言える。リンゴでも、山でも良い。自分がこのことはこうだと確信した物を、確信した線で引くことである。そうした点で打つことである。それで始めて対象を写しているのでは無く、描いていると言うことになる。
その確信を獲得するためには、描き抜く以外にない。北斎の言ったように100歳まで描かなければ行き着けない世界なのだろう。北斎は名声を得たデザイン性が絵画の本質では無いことを理解していたのだと思う。本画と浮世絵を越えて、絵画としての高みを生涯目指したのだろう。
自分の確信にいたることだ。自分が描く物はこれだという確信がなければ、人に伝わるような物は描くことは出来ないだろう。絵を描くとはこういうことだいう確信を得なければ、絵を描くという事はできないのだろう。
まだまだである。情けないくらいまだまだである。ただ、少しも諦めてはいない。ここからだと思っている。やっと自分の絵を描く方角が見えてきたところだ。何が違っていたかは分かってきた。今度は見えている世界の確信に向かうことだ。
絵は観ている世界から得た、自分の世界観を描くものだ。それにはまず自分に世界観が無ければならない。世界観があるとして、その世界観をどのようにすれば絵で表現できるかが分かっていなければならない。そう考えると自分がまだまだ及びも付かないと言うことが、よく分かる。