石垣市桃林寺「大衆禅堂」と笹村アトリエ

   



 石垣島で一番古いお寺が桃林寺である。石垣島にお寺は8つある。桃林寺の裏の歩いて2分ほどの所に私の家はある。どこに行くにしても前をよく通る。仁王像が山門に構えている。この仁王像は明和の大津波で一度流されてしまったそうだ。それが崎枝湾に幸運なことに流れ着いた。何という不思議か。

 仁王像はいかにも江戸時代の作風である。一見閻魔大王を思わせる像である。すこし見世物風の大仰しい風貌である。江戸時代の人の好みが残っているところが、石垣島の当時の気風をも想像される。七夕に開張される、桃林寺の地獄絵図と同じ系譜の作風だと感じた。桃林寺の入口には大衆禅堂の大看板が掲げられている。

  そういえば、桃林寺では絵図の公開が行われている。七夕と言われていたが、今がそういう時期にあたるのだろうか。公開と行っても本堂の扉は閉じられているから、黙って入っていいものか迷うところである。

 桃林寺は臨済宗の妙心寺派の寺院と言うことらしい。沖縄に仏教寺院が沢山出来たのは江戸時代である。檀家制度を作り庶民の統制を取ろうとした江戸幕府の統治手法のは波及ではないだろうか。薩摩藩を通して、琉球王にまで及び、それが石垣まで来たわけだ。琉球王国第二尚氏王朝7代目国王尚寧王によって、1614年に鑑翁西堂を開山とし桃林寺は創建されたとある。

 妙心寺は臨済禅の本山である。座禅は面壁ではなく、堂の中を向いて座ると聞いている。どういういきさつで臨済宗のお寺になったのかは分からないが、創建当時は真言宗とある。このように宗派が変わる寺院は案外に多い。私の生まれた向昌院も江戸時代に曹洞宗に変わった。それにしても臨済宗のお寺は少ないからめずらしいことだと思う。

 叔父の彫刻家の草家人の長女は奈良の妙心寺派の寺院に嫁いだ。いとこに当たる。私の家で長く一緒に暮らしていた人なのだが、今は生きているのか死んだのかも分からなくなってしまった。草家人がどこかの100歳のお坊さんの像を造った縁と言うことを聞いた。

 桃林寺では少し前までは、土曜参禅会が行われていたらしい。今は行われては居ない。旅行できていたときにはまだ参禅会があった。家のそばで参禅をしていると言うことで少し緊張した。引っ越してきてみたら、止めたと言うことで何かほっとした所もある。

 妙心寺系のお寺では大衆禅堂という活動が行われている。妙心寺では今も続けられている。まず住職が土曜日の夜には参禅会を開くことになっている。よほど真面目な坊さんでなければ続けられるものではない。桃林寺さんのご住職もきっと若い頃には妙心寺で修行されたのだろう。

 ご住職には家の上棟式の時に祭事を取り計らっていただいた。お寺さんが建前の祈祷も行うというのは、おかしいことのようだが、田舎では普通のことである。山梨の向昌院でも子供の頃おじいさんである住職は、上棟式に出かけていった。帰りにはおぶっくを貰ってきてくれた。おぶっくはお菓子のことである。建前では屋根の上から、お菓子を撒いたのだ。

 あのいわゆる駄菓子がなんと美味しかったことか。少し古びたような味まで懐かしい。お菓子を食べるというようなことが、全くなかった子供時代である。ヤマメ、蜂蜜、栗虫、随分美味しい物を食べていたのに、建前の時の駄菓子の方が記憶に残るほど美味しかったわけだ。

 桃林寺の前には大衆禅堂と言う看板のことである。本山である妙心寺の説明によると、大衆禅堂とは在家の方、一般の方を対象とした坐禅会を行う場とある。やはり、妙心寺の布教活動の一環として土曜の夜の座禅会が行われていたと言うことと考えていいようだ。

 私が参禅させていただいた、茅野の頼岳寺では参禅道場という看板が山門にあった。こう言う言葉の違いに、臨済禅と曹洞禅の違いのような物を感じる。曹洞禅の方が構えが厳しい。道元の姿勢を考えれば当然のことだろう。大衆、庶民、布教、葬式も眼中になかったのだ。



 家の表札には笹村アトリエ書いた。家を作るより大分前に表札だけは書いてあった。石垣島に心機一転のアトリエを作るという気持ちだった。笹村アトリエは、絵を見る場である。作業として絵を描くのは車アトリエである。

 おかしな事のようだが、家のアトリエで実際に絵を描くと言うことはない。これは小田原でも、山北にいたときでも同じだ。もう30年になる絵の描き方である。水彩画を始めてから、現場での写生で絵を描くようになった。

 アトリエは絵と対峙する場である。アトリエで描いた絵と向かい合っている。絵を描く時間よりもはるかに長い。アトリエでは絶対に描かないようにして居る。絵の具や筆を出してない。出してあるのは書の道具だけだ。

 アトリエは絵と対峙するのだから、良い空間でなければ成らない。そうでなければ絵が見えてこない。良い空間とは物理的な光とか、絵までの空間の広さとか、壁の色と床の色、様々あるわけだが。それ以上に重要なことは空間の濃密さのような物だ。空気を乱す余計な物があってはダメと言うことがある。

 アトリエには真剣な空気が満ちてこなければならない。だから、夜の修行として掃除をする。床を磨きながら自分を磨く。日々掃除をしている内にどこかアトリエの空気が参禅道場の緊張感のある空気に変わってくる。そこではじめて絵と向かい合えることになる。

 動禅もアトリエで行う。動禅を行うことで、空気が変わった。いつもだらだらしているのに、さすがに緊張感が生まれた。2年という歳月だろう。アトリエにも時間が籠って行く。

 やはり笹村アトリエには大衆はいない。布教の方はそもそもその種が私の中にない。あくまで私のことだけの場だ。だからどちらかと言えば、監獄のような空気である。窓も高いところに一つだけである。天窓は4つあるのだが、明かり取りで開放感というような感じはない。

 車アトリエで描いているときには何かを考えているわけでは無い。その場に反応しているだけだ。思わぬ面白い事が起こることもあれば、とんでもないこともある。何故なんだろうと家で絵を眺めて、方角を見定めている。方角を見定めては、又描きに行く。

 絵を見るとき一番大事なことは場の空気である。緩んでいれば、やはり絵は見えてこない。良い美術館には切り済ましたような緊迫感がある。自分という存在のすべてをかけて絵画と向かい合うこと。そうした真剣勝負が出来る場が必要だ。参禅道場というのはそういう場だと思う。

 だから、アトリエはそこを育て磨き上げる生活という物が無ければならない。草家人の棡原にあったアトリエはなかなかすごいアトリエだった。今もそのままに残してあると聞いている。石垣島のアトリエもそういう場にすこしづつ育ってきている。

 今度車アトリエを変えることになっている。好きな軽トラアトリエである。どんなものになるかまだ分からないが、10月に出来てくる約束である。描きやすい四角い箱を軽トラに載せる予定だ。今のタントアトリエがダメになってきたので、買い換えである。

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