八重山ではしゃべるように唄えと。
唄はできる限り普段のその人の声であるのがいい。どうも沖縄の唄ではそういうことが言われるようだ。その代表例が大工哲弘さんである。大工さんの唄に「沖縄を返せ」という、民族闘争の唄がある。歌詞としては単純で面白くもなんともない。ところが大工さんが唄っているのを聞くとなぜか感銘を受けてしまうのだ。
人間の説得力のようなものが溢れてくる。当たり前のようにしゃべるままに唄う。その人間の思いが直に伝わってくる。歌というのは思いを伝えるものなのだ。思いを共有するものなのだと心底分からせてくれる。歌という表現はすごいものだ。
そういう歌うたいが私にとってはもう一人いる。高田渡さんである。「生活の柄」という浮浪者の歌がある。沖縄の詩人山之口獏氏の詩を歌ったものだ。この歌もすごい。何でもないものが心に染みる。唄はいいものだ。こんな風に唄いたいものだとつくづく思う。
何故こんなにも伝わってくるのかと言えば、その人の声だからだ。唄うというようなよそ行きの声ではない。そろそろ寝るか。さあ畑に行くか。それがそのままの声として唄になっている。その当たり前のことこそがすごいという事を、歌で教えてくれる。
浜菜みやこさんというラジオのパーソナリティーの人がいる。この人は毎週ハッピバースデェーソングを名前入りで唄う。これがいい。天使の歌声という言葉を聞いたことがあるが、愛称ハマミィーの声こそそれだと思う。声を聞いていると癒され元気になる。
人間の声はかなりのものが伝わる。私たちの田でん楽団ではあかちゃんの唄がすごいと思っている。やはりその人のままなの素晴らしさだ。その人のままであると言うことが一番大事なんだ。人間は装って生きているから、なかなかその人にはなれない。所が唄う声によってその人が垣間見える。するとぐぐーんと伝わってくるものがある。
その人のままであると言うことは、実はできそうでできないことだ。人間はその人のままに向かって歩いているのだが、その人に至ると言うことは簡単そうで、まず不可能なことのようだ。しかも、至ればそれで良いとも言えないところが難しいところなのだ。
自分の普段しゃべっているような声で歌えたとする。それは練習すれば可能なのかもしれない。ところが普段のしゃべっているような声が、良くないと言うことがある。普段しゃべっている声がすでに作り物が多いいのだ。その人の人間らしい声でしゃべることのできる人など滅多にいるもんではない。
そのことはその人の声をその気で聞けば大抵は分かる。その人の声で、その人の話を聞けばおおよそ人格というものは分かるものだ。良い人の声は良いものだ。視覚も多くのことを伝えてくれるが、声というものはそれとは違う本音のようなものを聞かせてくれる。だから、ラジオの方がテレビよりも人格のごまかしがきかない。ラジオをいつも聞いているとおおよその顔まで想像ができるようになる。
いぜん、見たことはないパアーソナリティーの方の似顔絵を描いて、その人の写真を探したことがある。やはりかなりその人らしい顔になっていた。むしろ写真よりもその人に近い顔だった。
唄のことであった。その人であるから歌が良いという訳でもない。その人であるから、面白くない。気障りだ。そういう肌が合わないという唄もある。その人の声で歌わなくてはならないが、その人がつまらなくては、唄もまたつまらないものになる。大事なところはむしろ、ここの所である。
唄は素晴らしい人間に出会う体験なのだ。その人が素晴らしい人でないと、素晴らしい人の唄の真似になる。良さげな声の真似をした発声をする。上手な物まねの人の歌など、本人かと聞き分けられないほどである。しかし、どこか本人の唄ほど感動は出来ない。要するに本人ではないからだ。
いい唄だと感動するのは、その歌に感動するのだが、やはりその人間と出会ったような嬉しさなのだと思う。だから、出会いたいような人の唄が聞きたいわけだ。お会いして、良かったと思えるような人の唄が聞きたいという事になる。
唄のことを書いたのだが、実は絵もそうだという事かと思う。絵も上手にまねた絵が見たいわけではない。要領がよく作られたものであればあるほど、つまらない人間の絵はいやだ。人真似で絵を作り上げてしまうなど、つまらない人間のやることだ。
絵の場合、大半が物まねタレントである。それは恐ろしいほどだ。だから、絵の場合は本物のその人の絵だと感じられる絵であればそれだけで驚いてしまう。私は絵を見ているというより、その人である絵を探している。
もちろん絵はそこから先の事になる。やはり、良い絵は凄い人間が描くものだ。多くの人の若い時代は、自分というものがないから、すごい人の作り出した様式をまねて絵作りをする。物まねが上手な人は評価を受ける。そのことは絵を描く人生の罠のようなもので、その評価が邪魔をして、その人に至る道を忘れてしまう。
そういう物まねタレントの絵はすぐに当たり前のごとく消えてゆく。もちろんものまねさえできなかった私のようなものは、当然評価もされない。おかげで道誤らないで済んだ気がしている。少なくともダメな自分に向う道を歩ける幸せがある。どうせなら、ダメな私という人間の底にまで行ってみたい。