理解するとはどういうことなのか。
自分と違う考えの人を理解力がない人間と考える人がいる。批判的なコメントを書く人の多くが、そんな角度から意見を書いている。理解さえできれば、そんな馬鹿な考えになる訳がないのにと、あきれてしまいついついコメントを書くことになるらしい。世間にはあらゆる考えが存在する。人殺しを正義とする考え方の人間さえいる。理解力があるとかないとかの問題ではなく、人間には千差万別の考え方があるとしなければならない。その上で同じ社会という枠のなかで、共同して生きなければならないのが人間である。自分とは違う価値基準が社会では一般的なこともある。違う人間が妥協し合うというのが人間社会であろう。何が良くて、何が悪いかは難しいものだ。人によって考えは違う。法律というものは、その時代の一応の倫理的規範を反映しているという事にすぎない。時代に応じて法律が変わるように、あくまでその社会の比較的多くの人がそれでよしとするものが法律なのだろう。
日本という国が原子力発電をするなど全く心得違いだと個人的には思うが、原発の稼働を良しとする人も多数存在するという事は当然のことだ。そこで議会制民主主義社会という事になるのだろう。選挙において、代議員を選び多数派の意見で物事が決まる。原子力発電を必要とする人が多数派であれば、私のような反原子力発電の人間は我慢しなければならない。しかし、少数派の考えも尊重されるという意味で、原子力発電の電気は使いたくないという人の選択肢は用意されるべきだろう。様々な考え方があるという前提で、すべての情報が公開されていなくてはならない。といっても情報の公開など不要だという少数意見さえある。これもまた理解力がないからではなく、物事の考え方はさまざまであるに過ぎない。民主主義社会では物事がすべて公開されていなければ、良い議論が出来ない。という考え方が今のところ多数派という事なのだろう。隠されていたのでは判断が出来ない。原発の事故など実は人も死なない小さな事故だったと政府が誤解を生じるような情報を流すことは、あってはならない。
様々な考え方が、自由に主張されるべきだ。大いに議論が交わされ、一人一人が異なる判断をして良い結論に至る。その結論は当然、一部の人は全くその通りだと思うであろうし、一部の人達には全くおかしい社会だと思う事だろう。そして大多数の人はどちらでも大したことはないと考えているに違いない。これが、普通の民主主義社会の成り立ちだと思う。自分と異なるから、理解力がない人間だというような切り捨ての考え方は、実は議論を断ち切っているのだ。本来共通理解はそこから始まる。民主主義に一番必要な議論というものの火を消してはいけない。社会にはいくらでも理解の仕方が違う人間がいるという事に、考えを誰しも広げる必要がある。そして違っている者同士がどのように妥協して、調和して暮らして行かなければならないのかだろう。
ただし、権力者の立場は違う。権力者は意見の違うものに対して、権力を振るえる存在である。この点一般の人間とは全く異なる存在である。権力者を批判的な角度から、注意深く監視する必要がある。その権力者が、実は用務員のおじさんになっていたり、警備員になっていたりする。権力者は隠れている。気お付けなければならないのは、警察官だけが権力者なのではない。権力者が独裁者ならわかりやすいが、安倍氏であればどうであろうか。安倍氏は鵺的存在でつかみどころがなく厄介な存在なのだ。安倍氏は考えを持たないかのような顔をして、考えを押し通そうとしている。しかも巧みな政治戦略を用いて、憲法を変えようとしている。武力をもって強いものが正義であるという社会を作ろうとしている。やろうとしていることは実に巧みで、独裁者のように見える。トランプ氏とも本音は似ている。武力を乗り越えた、譲り合う正義の世界を私は目指さなければならないと考えている。出なければ人間は滅びの道に向う事になると思うからだ。