表現の自由とネットの正義

男性の体臭が耐えられないという意見がネットに出て話題になった。自分が臭いと言われたのかと、ドキッとした。私も臭い一人だろうなと思える。私に耐えがたい人も居ることだろう。それはつらい事だが、どうしようも無いことでもある。
百姓仕事をしていれば、仕方がないことだ。一日中汗をかいている。シャワーをのぼたん農園に作りたいとも思うが、今はまだ無い。清潔な無菌室生活ではない。汚いはきれい、きれいは汚いの世界に生きている。発酵臭は心地よい人も居れば、耐えがたい人も居る。
この問題は炎上していて、話題にすること自体が良くないことになるのでここまで。書いた人は事務所を解雇されてしまったそうだ。ネットでは些細なことが大事になることがある。私もとんでもないことを書いて、不愉快な気持ちにさせている事があるに違いない。
どれだけ注意していても、人がどう受け取るかは又別である。ネットで書いて公表すると言うことは、人間としての責任が生じる。ただネットに関わる人には、病の人が居る。どうしようもなく文句が言いたい人が居る。またお金を貰い因縁を付ける人も居る。
ネットでは普段なら口にしないようなことを、書いてしまうことも無いとは言えない。危うい形で本音が出るのだ。却ってその人のことがよく分る。ブログを読んでササムラの本音が分ったと、教えてくれる人が居る。そのために書いているのだから、そうだと思う。
面と向かってしゃべっているときは、相手に合わせてしゃべっている側面がある。どんな問題も様々な側面があるから、石垣島に来るミサイル基地のことも、床屋談義では、曖昧さに満ちた様々な話になる。ブログに書くときには、揺れ動かない自分の考えとして書いている。
好かれようと思って書いているわけでは無い。嫌われても言わなければならないことを書きたいと考えている。Xという短い文字数のものには私は書かない。基本的には原稿用紙10枚と考えている。人間の意見というものはそれくらい必要だと思っているからだ。
政治家などの公人は権力者である。私を秘密裏に情報収集する法律まで作ってしまった。過去電話の盗聴を神奈川県警にされた経験がある。世田谷に住んでいた頃には、警察官と言ってもスパイのような人が、無断で私の家に入り込んでいたことがある。
権力者は遠慮無くおかしな事やる。権力者批判はとことんやる。私に権力者批判が、出来る間はまだ民主主議が生きていると言うことだ。中国では無理だろう。魚釣島問題は話し合いで解決すべきと言うだけで、そのブログは停止されるだろう。
間違いや思い違いはあるが、軽い気持ちでうっかりは書かない。間違いに気がついたら直すほか無い。しかし、間違いでもうっかり書いたわけでは無い。そう一度は考えていたことなのだ。それは変らないことだ。一度書いたことは責任を取らなければならない。
それは報道機関も私も同じなのだ。ネットで書くと言うことの責任は報道機関も私もその責任の重さは変らない。きのうNHKでは尖閣諸島は中国領土だと流したそうだ。どう責任を取るのだろうか。謝って終わりだろうか。そういうことが起こした責任者が、何故こんなことになったかを説明をすべきだ。
20秒間一体何をまわりの人はしていたのだろうか。他には南京大虐殺を忘れないとかしゃべったらしい。当然一人に任せていたわけではないだろう。どのようなチェック体制で進めていたのかも説明すべきだ。そのチェックしていた人は、何故気付いて止めなかったのか。
これからは生放送では海外ニュースをやらないことにしたという。何か態勢に不備があり起きたことなら、その責任者は責任を取らねばならない。ネットは、個人であってもその伝達力はNHKに等しいものなのだ。謝って終わるようなことは書かない覚悟が居る。
個人の意識としては報道機関と同等の責任があるブログをブログを書いて公表している。NHKに対して良く責任論を書くが、自分に対しても同じことを思っている。その責任は何ら変らない。表現すると言うことはそういうことなのだろう。
従軍慰安婦少女像の愛知トリエンナーレに於いて、あのおかしな名古屋市長は展示を取りやめさせた。これは表現の自由の侵害である。美術館の中で起きたことを、行政が指導するようなことはあってはならない。表現内容に問題があろうがなかろうが、それが芸術表現だとして、展示されているものに対する姿勢だ。
それを主宰者が作品だと認めて展示した以上、会期中作品は展示されなければならない。もしも作品ではないと考えるならば、主催者に対して、芸術作品であるかないかで争うべきだ。その判断は裁判で行われる他ない。権力を持って強制撤去するなどあってはならない行為だ。
この展覧会の趣旨は、国内の美術館やイベントで近年、撤去や公開中止となった作品を集めた企画「表現の不自由展・その後」の一つとして出品された。表現の自由とは何かを問う企画展で、表現の自由が阻止された事例で、まさに表現の不自由が表現された事件になった。
水彩人を開催する、東京都美術館でも従軍慰安婦像の展示が撤去された事件があった。都美術館では開催前に、検閲がありそれを通過しないと展覧会は開催できないことになっている。本来であればおかしな話だと思う。美術館はその国の文化レベルを表わしているのだ。
台湾台北の現代美術館では「発売禁止にされた歌展」と言うものが開かれていた。オオヤンフィーフィーさんの唄が発売禁止だったことが印象的であった。理由は何だったのだろうか。退廃的というようなことなのだろうか。日本ではそ言うことは全く問題にならなかった。
文化はその国の現状を表わしている。中国が中華国家を標榜しても、現代美術館に行けばどんな状況にあるかはすぐに分る。韓国では日本を経済で追い子としたこと以上に、文科で日本を追い子としたことが素晴らしいと言われているのだそうだ。
それがあの韓国ドラマや、韓国ポップスだとすると、韓国の文化はかなり低俗だと言わざる得ない。確かに韓国には素晴らしい絵画あったこともあるが、最近はそ言う話は聞かない。芸術は国に奉仕するのでは育たないのだ。芸術が一番欲するのが自由だ。
今の日本は急速に絵画芸術が衰退をしている。それは日本の社会に本当の意味の自由がないと言うことなのだ。飼い慣らされた者に表現はない。自分という者が存在しない者に表現があるはずがない。従軍慰安婦は存在した。そして今の朝鮮にも慰安婦はいる。朝鮮王朝時代にはキーセン外交と言うものが存在した。
どれもこれも悪いことだが、従軍慰安婦像こそ、今の韓国という国を良く表現している。それは韓国という国のお国柄を含めてのことになる。その表現を誰がどう考えるかは、受け止める側の問題である。日本大使館の前展示しても、デモを続ける国が韓国なのだと思うほか無い。
その後、愛知トリエンナーレ展に対して、文化庁は事後的な補助金全額不交付とした。これが日本政府の実態である。この補助金不交付行為も一つの表現として世界中の評価の対象である。私は恥ずかしいことだと思う。政府の都合の善し悪しで、補助金を決めているのだ。